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更新日:2015年4月10日

巨福呂坂 (こぶくろざか)

巨福呂坂は「こぶくろざか」と呼ぶ,現在においては一般的には小袋坂と書かれている。鎌倉城の北の出入り口に当たり、現在においても横浜、大船方面より鎌倉に入る重要な幹線道路である。
巨福呂坂の名が始めて吾妻鏡に見られたのは、嘉禎元年(1235)十二月二十日の条で、次のように述べられている。




旧巨福呂坂の庚申塔四代将軍藤原頼経が疱瘡の病にかかったので、病気治癒のご祈とうを御所の南庭にて行う。夕方に及んでより四角四境祭(陰陽道の災いを除く儀式。鎌倉幕府では、幕府の四隅でまつるのを四角祭。鎌倉の境界外部で行うのを四境祭という。:鎌倉事典)を行うとあり、この条の文中に四境として当時の鎌倉の境界に当たる巨福呂坂・小坪・六浦・片瀬の地名が書かれている。


その後の仁治元年(1240)十月十日に北条泰時の屋敷において、山ノ内に道路建設に関し沙汰があり、安東藤内左衛門尉(光成)が担当する事が決められた。


同じ月の十九日に北条泰時の沙汰として、山ノ内の道路建設が決定される。これは山ノ内が険難であるので往来に難儀する事からである。このように巨福呂坂建設の由来が具体的に吾妻鏡に記録されている。


それから十年後の建長二年(1250)六月三日に、巨福呂坂及び朝夷奈の切通が落石などにより大分痛んだので改修工事をするように指示があった、と述べられている。


その後の史料としては、太平記に元弘三年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めに巨福呂坂の名が見える。
「新田義貞はその軍勢を三方面に分け、各々の方面軍に二人の大将を付け全軍の指揮を執った。第二軍は堀口三郎貞満を上将軍とし、大島讃岐守を副将軍として、総勢十万余騎にて巨副呂坂へ差し向けた。」


新編相模国風土記稿には、古くは巨福呂、或いは巨福路とも書き、鎌倉七口の一つにして、鎌倉より山ノ内村に通じる上り三町程の嶺を村の境としている、と述べている。


弘安五年(1282)三月に僧一遍が巨副呂坂より鎌倉に入ろうとした際に、北条時宗と行き合いて一遍一行は鎌倉入りを阻止された。その時の様子を「一遍上人絵図」に詳細に描かれている。


さて、この様に多くを史書にて語られている切通であるが、実際はどこを通っていたのか気になるところである。この位置関係に関しては鎌倉市史に次のように述べられている。


鎌倉市史(考古学編):巨福呂切通:現在のものは明治以降に建設された物で(明治十九年五月開通)、古くはその上方が切通されていたし、更に古くはその西の谷を通っていたものと考えられている。


八幡宮裏石段を下って聖天坂に行く路があるがこれが旧道であり、聖天坂をまっすぐに登って尾根を切通し、建長寺前に下っていたものと考えて良い。


仁治元年(1240)の切通工事はこの尾根に加えられた改修工事で、もとは切通もなく尾根を越えていたものだったに違いない。その険阻な路を切通したので交通が少し楽になった程度で、その険阻なことが鎌倉城防衛上の役に立っていたのであろう。

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