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更新日:2017年3月27日

鎌倉でも起きていた英国士官殺傷事件

横浜開港

安政5年(1858年)6月19日、神奈川沖に停泊するアメリカ軍艦ポーハタン号上で、日米修好通商条約が調印され、函館、長崎、新潟、兵庫とともに横浜(神奈川)が開港場に定められました。
開港場では、外国人が居住(居留)することができ、建物を建て、自由貿易が行われていましたが、アメリカ駐日領事ハリスたち外国人は、狭い居留地だけでなく、外国人が日本国内を自由に旅行する権利を主張し、幕府との協議で一定の範囲で遊歩(英文の条項では、"be free to go where they please"と書かれている)する権利が認められました。
江戸に近づくことは禁止されていたものの、いわゆる10里遊歩規程によって、その範囲は横浜開港場から東北は六郷川(多摩川)を限り、西南は酒匂川までが横浜居留外国人遊歩区域内に入りました。鎌倉もこの遊歩区域に入っており、この遊歩区域に入った村々には、幕府から外国人との接し方について細かく「御触れ」が出ていたようです。

遊歩地鎌倉

安政6年(1859年)6月に開港した横浜には、外国から貿易商人、宣教師、旅行者などが続々と上陸し、彼らは横浜から乗馬で日帰りも可能なその立地から、手頃な行楽地として鎌倉を訪れました。

鎌倉を訪れた人びとについては、次のような記録が残されています。

イギリス人園芸学者であるロバート・フォーチュンは文久元年(1861年)、知人3人と共に、金沢を経て、朝比奈峠を越えて鎌倉に入りました。彼は、初めて目にした鎌倉を次のように描写しています。

――ついに鎌倉に到着しました。だが、現在では、かつて首都であったことを思わせるようなものはありません。たんなる田舎の村に過ぎません。(略)しかしながら、ここにある寺院や周辺の風景は、昔から日本人をひきつけてきたように、今後、外国人の観光客にも、常にとても魅力的なところとなるでしょう。鎌倉は谷間の奥にあります。その両側と背後に山があって、海のほうに向かって広がっています。松のすばらしい並木道が寺院から海岸までつづいています。――

ここにいう「寺院」とは神仏分離前の鶴岡八幡宮を指しています。こののち彼らは、高徳院の大仏を訪ねたり、鶴岡八幡宮前の宿で食事を取るなどした後、帰りは金沢に引き返し宿泊して、横浜から2泊3日の鎌倉見物の旅を楽しんだようです。

また、鎌倉で宿泊した外国人についても記録が残っています。宿の主人と名主の連名で、神奈川奉行書へ出された届出によれば、文久2年(1862年)7月29日に、横浜居留のイギリス商人一行13人が、雪ノ下村の富田織衞の経営する宿屋に泊まったと記録されています。

しかし、このように平穏な鎌倉見物だけではありませんでした。

多発する外国人殺傷事件

開港以降、横浜、江戸、函館で外国人殺傷事件が頻発しており、横浜開港直後の7月には、横浜でロシア軍艦の士官と水夫が買い物帰りに殺傷され、居留地の外国人を驚かせました。その後外国人殺傷事件は増加し、中でも万延元年(1860年)12月5日、江戸でアメリカ総領事ハリスの秘書兼通訳ヒュースケンが攘夷派薩摩藩士に殺害されたことは外国公使等に衝撃を与え、その後の幕府の外国人への対応に大きな影響を与えました。日本に駐留していた諸国は安全を守れない幕府に抗議し、ハリスを除く各国公使は、危険な江戸を引き上げ、一時横浜に移りました。

その後も、文久元年(1861年)、イギリス公使オールコック等が高輪東禅寺にあったイギリス仮公使館で攘夷派浪士に襲われ、警備兵・浪士側に死傷者を出した東禅寺事件、さらに翌文久2年(1862年)、横浜居留のイギリス商人たちが遊歩区域内の川崎大師へ行く途中、生麦村を通りかかった島津久光の行列で起きたイギリス人殺害事件、いわゆる生麦事件など、攘夷の嵐が吹き荒れ続けました。
度重なる外国人殺傷事件に対し強行策をとったイギリス側は、生麦事件に対する多額の賠償金を要求するとともに大艦隊を横浜に集結させるなど、横浜は一挙に緊迫し、「横浜騒擾」という事態になりました。その頃幕府は、文久3年(1863年)5月10日を攘夷期限として朝廷に上奏し、長州藩はこれを受けて馬関海峡を封鎖。その日に下関港で外国船を砲撃しました。その長州藩に対する徹底的な反撃は、翌元治元年(1864年)8月5日に横浜から四カ国連合艦隊17隻が出港して行われます。これがいわゆる下関砲撃事件(下関戦争)で、ここで連合艦隊は圧倒的な軍事力を長州藩に対して見せつけ、砲台を無力化された長州藩は攘夷を放棄することとなり、横浜に残留したイギリス軍、フランス軍の兵士たちはその後、居留地防衛の理由で横浜の山手に駐屯し始めることとなります。

鎌倉事件

そのような中、元治元年(1864年)10月22日、鎌倉において外国人の殺傷事件が起こります。殺傷されたのは、横浜から遠乗りで鎌倉見物に来ていた、横浜駐屯のイギリス陸軍第二〇連隊二大隊の、ボールドウィン少佐とバード中尉の2名で、前者は即死し後者はその晩まで生きていたと記録が残っています。彼らは8月の下関砲撃事件の緊張から解放され、休暇が取れて秋の金沢、江ノ島、鎌倉見物に訪れたのではないでしょうか。

この時の二人の様子については、次のように記録されています。

幕末・明治の日本を撮った写真家F.ベアトと画家ワーグマンが江ノ島でこの二人に会って、写真を見せたり会話もしていたようです。彼らは、まだ大仏を見ていないのでと言ってベアトと別れました。(The Daily Japan Herald. Nov. 24,1864,p.626)
その後訪れた大仏の老僧の証言には、午後2時頃二人の外国人が来て、静かに大仏を見物していたとあります。(Rutherford Alcock to Earl Russell, Nov. 29,1864)
彼らが大仏を出て、金沢へ向かおうと、馬に乗って六地蔵を通り過ぎ八幡宮に通じる松並木に差しかかったとき、事件が起きます。イギリス外交文書に残っている図面(R.Alcock’s.No.98.of 1864)が『鎌倉市史 近世通史編』P694に掲載されていますが、現在の下馬四つ角北西隅の家の前に小さく二つの死体らしきものが書かれており、この二つがこの事件の被害者、二人の英国士官と考えられます。
この辺りは、八幡宮寺(Temple of Hachiman)境内の段葛が海へ続く若宮大路沿いで、当時は鎌倉10ヵ村の内大町村に属しており、偶然この場面に遭遇した11歳の子供の証言や名主や近辺の住民の調書が残っています。

少年は、二人の侍が、馬に乗ってゆっくり進んで来た最初の外国人を下から斬り付け、すごい叫び声とともに落馬するのを目の当たりにして、あまりの驚きと恐怖で、二日間食事がのどを通らなかったようです。また、午後3時半頃仕事から帰ってきた大町村の百姓が二人の外国人が倒れているのを見つけて、近くの家の者に知らせ、まだ生きている人の手当をしたと証言しており、大町村の漢方医錦織三益も呼ばれて手当をしたと証言しています。

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F.ベアト撮影 「下馬付近」

この事件は、鶴岡八幡宮の社役人の指示で大町村の名主と年寄が相談し、年寄が夜道を歩き通して、その日の午後9時過ぎ、横浜の神奈川奉行所に伝え、翌午前1時過ぎにイギリス横浜領事に知らされました。さらに上官のイギリス公使オールコックに急報するとともに、まだ重傷の士官は生きているとの報に外科医2名、騎馬報兵隊25名、通訳を鎌倉へ派遣しました。しかし、彼らが夜明けに鎌倉に着いたときには、重傷だった士官も亡くなり、二人の遺体はムシロをかけられて横たわっていたようです。
二人の遺体は、金沢から海路横浜に運ばれ、盛大な葬儀がいとなまれ、軍艦や陸上部隊の分遣隊、非番の全士官、横浜居留民全部、数多くの日本人高官が臨席しています。日本に駐留していた外国人たちはこの事件を聞き、恐怖につつまれました。

彼ら二人は、横浜山手の外国人墓地に葬られ、今も眠っています。

山手外国人墓地二一区三五番 GEO.W.BALDWIN

同         二一区三六番 ROBERT.N.BI

イギリス公使の強硬姿勢と犯人逮捕

公使オールコックの怒りと幕府に対する不満は頂点に達し、士官を殺害した犯人の探索と処罰を強く要求しました。これまでたびたび起こっていた事件に対して、今以て一度も犯人を召し捕り、罰することがないのでは、イギリス軍は武力を行使して寺を壊してでも真犯人を探し出すという口調で幕府に迫ったのです。さらにオールコックは、真犯人処刑の場所は殺害現場である鎌倉で公開で行うことを後任の公使に言い残して、本国召還帰国の途につきました。
帰国前日の11月25日に犯人の一人が江戸の千住で逮捕されたという報せにオールコックはこの上なく喜ばせました。犯人の処刑は、横浜戸部の刑場で公開で行われ、吉田橋の袂に首がさらされ、その瞬間に立ち会った外国公使、兵士、幕府役人をはじめとする多くの者に、生涯残る強烈な印象を与えたとのことです。犯人の探索は困難を極めたが、二人目の犯人も10ヶ月後の慶応元年の夏に捕らえたという報告を、着任したイギリス公使ハリー・パークスに伝えられました。この事件を受けて、鎌倉辺りに改めて見張り番所を取り立てることも検討されたようです。

さて、前述のとおり公使オールコックは犯人の処刑は殺害現場である鎌倉にて公開で行うことを後任の公使に言い残して本国へ帰国したわけですが、実際には処刑は前段のとおり横浜戸部の刑場で行われました。これはについては、オールコックの後任の公使からの鎌倉での処刑要求に対応した幕府役人(神奈川奉行)の言葉が記録されています。

「鎌倉は、かつてわが国の首都であったところですが、日本人の目から見るとそこは神聖な場所です。しかも、ひろく崇拝や参詣の対象となる寺院や偶像があるところです。つまり、その付近を裁判によって処刑される場所とすることは品位をおとすことになるか、あるいは、日本のひとびとの、とても大事なところをけがすことにさえなるのです。」(C.Winchester to E.Russel,Yokohama, Dec.29,1864.)

この言葉がどれだけ公使に響き、伝わったのかはわかりませんが、結果として、ここ鎌倉での公開処刑は行われませんでした。幕末から頻繁に起こり続けた外国人殺傷事件ですが、その犯人が捕らえられ、処罰されたのは、この鎌倉事件が初めてであったようです。

参照 内海孝『鎌倉市史 近世通史編 第六編 第二章』平成2年3月31日

    岡田章雄『鎌倉 英人殺害事件』昭和52年10月10日 有隣新書

「知られざる鎌倉」発掘プロジェクト第一弾「鎌倉これあらた(維新)」全体図

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この往事案内板は、上記の市内5ヶ所に設置されています。もしご興味がおありでしたら、足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。

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