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更新日:2017年3月27日

幕末相模湾の防備を固めた腰越八王子山遠見番所

koyurugi

川越藩管理下での警備

老中水野忠邦が政権を掌握していた天保13年(1842年)7月23日、幕府は、文政8年(1825年)に発令した、各地で暴挙を振るう異国船を打ち払う「異国船打払令」から一転、欧米先進国との紛争を避けるべく、異国船をむやみに打払わず、難船であれば薪水、食料を十分に与えて穏やかに帰帆させよ、とする「薪水給与令」を発令しました。
そのすぐ後、天保13年(1842年)8月3日、川越藩松平氏は相州(相模国)警備を命じられ、鎌倉郡の領分高を与えられました。これにより川越藩領となった鎌倉郡腰越村をはじめとする海岸沿いの住民たちは、川越藩の管理のもと、恒常的な海防への協力を余儀なくされることとなったのです。
これら川越藩領となった村々では、海防のための国役金(税金)が賦課され、異国船渡来時の通報が義務付けられたのに加えて、非常時には16歳以上60歳以下の男性は全員徴集され、労役を強いられました。海防のための労役は周辺の村々にも広く及び、住民は既存の夫役(労働で収める課役)に加えて、海防のための夫役を負担しなければなりませんでした。

 腰越八王子山遠見番所の設立

川越藩が相州警備に着任すると、その管理のもと、腰越八王子遠見番所が設営されるようになり、三浦半島に既に設営されていた台場と連絡を取りつつ、異国船渡来の通報拠点として機能するようになりました。
この八王子遠見番所がいつ設立されたのかについては、現在のところよくわかっていませんが、次の各史料から、次のとおり推測されています。

  1. 寛政4年(1792年)12月に当時鎌倉郡を領有していた大久保山城守が、老中松平定信による海防のための武器人数書付提出命令に応じた届出書(『川越藩記録、天保14年9月~10月』)には、自分の領地である片瀬・津・腰越の3ヵ村は他領との錯綜もなく、陣屋や役所もないので、万が一漂流船などを発見したときにはすぐに江戸に報告するように領民に命じてある、と記していることから、この時点では番所が存在してないないことは明らかである。
  2. モリソン号事件の翌年、天保9年(1838年)2月に代官江川英竜が幕府に提出した相州備場修復見聞の届出書(江川家文書「御用留、浦賀御番所其外御修復出来栄見分、天保9戌年2月」)には、浦賀番所、平根山観音崎両備場等の修復状況について詳細な記載がなされているが、腰越に遠見番所があったという記載はされていない。また、同年12月に江川英竜とともに江戸湾備場巡視を命じられた目付、鳥居耀蔵が翌年幕府に提出した報告書にも、相州の各備場の状況が詳しく記されているが、腰越遠見番所についての記載はされていない。(内閣文庫『御備場集義・第一冊』)

以上2つの史料に加え、天保13年(1842年)に川越藩が相州警備を命じられ、腰越村がそれまでの烏山藩から川越藩の領地になると、翌天保14年(1843年)9月には八王子山遠見番所が烏山藩から川越藩に引渡しされていることから、江川英竜と鳥居耀蔵が江戸湾備場を巡見した天保9年以後から、川越藩がこれを引き継いだ天保14年9月までの間に、烏山藩の手によって設立されたものと推測されています。

川越藩の請け負った江戸湾の警備体制

川越藩の江戸湾備場における当初の警備分担箇所は、江戸内海の観音崎・十石崎・簱山などの富津と真向かいにある諸台場と、城ヶ島・安房崎から腰越にかけての相模湾に沿った海岸でした。この頃、浦賀・平根山付近は浦賀奉行、対岸の房総州の警備は忍藩が行っており、川越藩、浦賀奉行、忍藩の3者で、当時江戸への海門と呼ばれた富津・観音崎間で異国船の侵入を食い止めるべく、この付近の台場に大砲を増設し、さらに船々に大小の火砲をしかけて乗り出し、異国船に打ちかかる手はずが取り決められていました。
一方で、ここ腰越から江ノ島にかけての海岸は、ことごとく険阻な岩壁が連なっているため、大船が陸地近くに乗り寄せてすぐに上陸することは困難であり、小船を降ろして乗り移る以外に方法は無いため、川越藩はこちらからの上陸に対しては海岸に小筒の者を伏せ置き、上陸しようとする者を狙い打つ作戦を立てていたようです。


そういった体制の中、川越藩に引渡しが行われた当初の八王子山遠見番所は、海に面した高台に二間四方(畳八畳分)の粗末な小屋があるだけという粗末な状況だったらしく、大筒の配備や台場(大筒の配備された要塞のようなもの)の数を増やすには、多額な経費がかかるため、川越藩は弘化2年(1845年)12月の幕府への提出書で、その厳しい財政状況を次のように記しています。

「腰越村字八王子山と申す所に遠見番所御座候間、台場の形に仕り、大筒備えおき候えども、尚また大筒鋳立て増し仕り、そのほか台場数を増し取り建て、近寄らせず打払い候様、いよいよ手堅く仕り申すべしと存じたてまつり候えども、委細申し上げご承知成し下され候通りに候わば、当時勝手向極めて難渋の折柄につき、何分一時にそれぞれ補理つかまつるまじく、心底にまかせず心外千万に存じたてまつり候」

すでにこの段階で大筒の配備が八王子山に行われていることがここからわかり、大筒や台場の数を増やす計画があることが記される中、これらの計画が一時に成しえず「心外千万」であるという苦しい事情も記されています。
当時川越藩は大変な財政難であり、海防を命じられた当初、幕府からの拝借金一万両と二万石の加増が行われましたが、慢性的な赤字財政に加え、出費のかさむ相州警備を請け負うこととなった川越藩にとっては、まさに焼け石に水といった状況だったようです。

遠見番所の構造・機能・役割

さて、前述のとおり、八王子山遠見番所が川越藩に引き渡された当初は、二間四方の小屋があるのみで、火砲類の配備は行われていませんでしたが、弘化2年(1845年)12月の幕府への提出書にて、大筒の配備がされていることがわかるため、火砲の配備は弘化元年から2年(1844年~1845年)の間に行われたことがわかります。
しかしながら、弘化3年(1846年)の記録によれば8基配備されていた火砲が、その4年後の嘉永3年(1850年)の記録では3基と大きく数を減じています。
この記録から、八王子山遠見番所は、相模湾の西側の眺望については江ノ島があるため限界がありますが、東側の眺望については障害物が少なく、三浦半島南端部までを一望することができる、その立地を活かし、相模湾の海上交通を監視し、異国船渡来の発見と浦賀港などからの異国船帰帆の状況をチェックする、通報拠点としての役割が優先されたものと考えられています。

ところで、この弘化3年(1846年)5月22日には、八王子山遠見番所にて水害事故が発生しており、近隣の百姓の家に番所の台場からの土砂が流れ込み、住むことができなくなるような状況となったそうです。
この水害事故からもわかるとおり、八王子山台場は地盤が脆くて崩れやすく、また、立地から海風は強く吹きつけ、お世辞にも居心地の良いところとは言えなかったようです。

ビッドル艦隊の渡来

前段で紹介した水害事故の3日後の弘化3年(1846年)5月25日、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが率いる2艘の軍艦が浦賀近海に渡来し、周辺の人を驚かせました。イギリスに対抗して対中国貿易を推し進めていたアメリカは、弘化元年(1844年)に清との通商条約を結ぶと、日本との間にも同様な条約を結ぶ計画を立て、その遂行にあたり、日本に条約を締結する意思があるかどうかを確認するため、ビッドルを派遣したのです。
このビッドルの到来は、川越藩の記録に次の通り記されています。伊豆大島沖合いに航行中のビッドル艦隊を漁民が発見し、弘化3年(1846年)5月27日午前にこれを川越藩三崎陣屋に注進しました。それを受けて三崎陣屋では、陣屋に詰めていた者を出陣させるとともに、観音崎など川越藩受け持ちの諸備場へ連絡して警戒態勢を張り、浦賀奉行所へも書状を持って事の次第を注進したことに加え、早飛脚と早船をもっと江戸表および対岸の富津陣屋へも使者を派遣して情報を知らせたようです。

さて、八王子山台場においても、翌28日7ッ半(午後5時)頃、鶴岡より南方5里ほど沖の海上を航行するビッドル艦隊を発見した旨の通報が漁民からあり、幕府は、鉄砲方6名を派遣し、同じ鉄砲方佐々木三内に指揮を命じて警備にあたらせています。このとき、腰越村は彼ら鉄砲方への兵糧負担を命じられています。

結局、ビッドル一行は浦賀奉行大久保忠豊、一柳一太郎ら13名の日本側官憲を自らの船に招いて会見を行い、日本側に通商条約締結の意向が無いことを確認すると、薪水給与を受けて、そのまま浦賀を退去する運びとなりました。その後幕府は、ビッドル渡来事件に労のあった者達に金銀を与えていますが、その中には八王寺山台場番人、加藤善造と角田忠五郎の両名が確認されています。ビッドル渡来時、八王子山台場にはこの2名の川越藩士と、前述の鉄砲方7名による警備体制が敷かれており、腰越村をはじめ近隣の農民、漁民が通報・力役労働・接待などに多く動員されたものと思われます。

彦根藩への台場引継ぎ

このビッドル渡来事件が川越藩に及ぼした財政的負担は莫大なものであったらしく、この時点で、受け持つ台場・番所の数、常時・非常時の役割分担等、同藩の経済的・人的動員力の限界を大きく超えていたということが、川越藩主松平大和守斉典が幕府に対して今後の江戸湾防備について次のように嘆願していることからもわかります。

  1. 多くの台場、番所を受け持つ川越藩としては、特に場広の持ち場では警固が行き届かないこと。
  2. 川越藩としては、今後江戸湾の咽喉の場所ともいうべき観音崎、簱山、十石崎、猿島での警固を厳重にしたいこと。
  3. ついては、川越藩の領地となっている三浦郡津久井村から城ヶ島にかけてと、三崎、西浦賀通り海岸、腰越辺までは、別手をもって警固にあたらせてほしいこと。

これと同様の嘆願は、房総州の警備を担当する忍藩からも幕府に対して出されており、この渡来事件を機に幕府も江戸湾防備の大幅な改編を余儀なくされることとなったようです。
こういった状況に加え、渡来事件のあった年の8月には、幕府海防掛の面々が、当時の老中阿部正弘や江戸湾防備の根本的改革についての答申書を提出し、警備の大名増員、台場の新設、浦賀における与力、同心の増員などが提案されました。これを受けて老中阿部は、翌弘化4年(1847年)2月15日、新しく相州警備に彦根藩井伊氏、房総州警備に会津藩松平氏を加える旨を達し、これにより川越、彦根、忍、会津の4藩による江戸湾防備体制が敷かれることとなりました。
これにより、川越藩は希望通り江戸内海の警備に専念することができるようになり、西浦賀から八王子山にかけての三浦半島の長い海岸線を警備することとなり、同年8月11日に川越藩から幕府勘定組頭竹内清太郎へ引き渡し事務が行われ、以後6年半余りに渡り、八王子山台場は彦根藩が警備にあたりました。

彦根藩は、三浦半島南部から鎌倉にかけて8ヶ所の台場の警備を担当しており、このうち7ヶ所の台場に榴弾砲や臼砲を設置している。八王子山台場にも3挺の臼砲が配備されており、当初のような通報拠点としての役割から、異国船との砲撃戦を想定した軍事的拠点へとその役割が変じてきていることが分かり、渡来事件以後の海防の置かれた緊迫的状況がうかがえます。
この時期、対岸の房総州においては、半島南端部の3台場は忍藩が担当し、2台場を会津藩が担当する体制が敷かれていました。これにより、江戸湾入口部分の三浦、房総両半島南端部分の防備は彦根藩、忍藩が担当し、ここで異国船を退帆させえない場合は、江戸への海門といわれる富津、観音崎間付近の備場で川越藩、会津藩、浦賀奉行の3者がこれをくい止めるという防備体制が敷かれることとなったのです。

これを見ると、八王子山台場の存在意義はあまり存在しないように思われますが、その重要性については、次のような点が考えられています。

  1. 江戸湾からすれば外海にあたる、相模湾の通報拠点としての役割
  2. 城ヶ島から鎌倉までは険阻な岩壁が連なっているが、八王子山台場と対岸の江ノ島との間は入江となっていて、ここが防備の死角ともなりかねない点
  3. 同台場の背後には伝統的な文化都市、鎌倉が控えているという点
  4. 江戸内海へ異国船が5~6艘という多数で侵入した場合、前述の内海の備場だけでは十分に食い止められない可能性が高くなるため、そういった場合に同台場から出船して異国船に向かわせ、退帆させる計画もあったこと。

 海防夫役の増大と助郷役免除の嘆願

こういった海防の拡大や、度重なる異国船の渡来により、海防のための夫役徴発は、近隣の村々に容赦なく及び、過重な負担に苦しむ鎌倉の村々は、負担軽減の要求を掲げて動き出すこととなります。鎌倉郡の14ヵ村は、藩からの海防夫役賦課が続いていることを理由に、嘉永元年(1848年)6月、川越藩家来を通じて勘定奉行久須美佐渡守祐明に対し助郷役免除の嘆願をしています。しかし、この嘆願に対し勘定方から何の沙汰も無いので、同じく鎌倉郡の14ヵ村は2年後の嘉永3年(1850年)5月29日、再び幕府に対して同様の嘆願をしています。
この嘆願は、嘉永3年(1850年)11月、勘定奉行池田播磨守頼方の返書により、1度却下されてしまいます。ところが、同年12月19日に14ヵ村の名主・組頭が池田に呼び出され、これら14ヵ村の助郷役は、翌嘉永4年(1851年)正月から10年間免除される旨の裁定が下ることとなります。村々の必死の嘆願が、条件付とはいえ認められたのです。

異国船渡来時における村々の情報伝達

江戸湾防備を担当する浦賀奉行や諸大名は、沿岸周辺の村々に対し、普段から異国船発見の通報や村々への伝達、備場への人馬動員などを迅速かつ円滑に行うよう厳しく命じていました。まず、異国船発見の通報については、渡来の情報を聞いた者や見かけた者はいち早く陣屋に駆けつけてその旨を届け、各台場へも知らせるよう義務付けられていました。また、村々への通報や人馬動員についても、あらかじめ村々の中でグループを作って順序良く伝達を行わせ、備場への人馬調達が遅れた場合は厳罰に処す、と命じています。
この村々のグループにおいて、鎌倉海岸周辺の村々については、よく「乱橋材木座村より常盤村迄〆12ヵ村」という形で通達が行われているため、恐らく台場のある腰越や海岸沿いの津、片瀬、極楽寺、坂ノ下などを含めた12ヵ村が一つのグループであったと考えられます。

嘉永5年(1852年)4月には、伊豆大島沖で航行する異国船が発見され、これら12ヵ村にも同月22日に彦根藩から人馬動員命令が下りましたが、その後、幕府から12ヵ村へ次のような達が出されています。

「今度異船大嶋沖え相見え候に付、村々え相触れ候ところ、人馬殊の外遅参の村もこれあり、もつての外不埒の事に候えども、憐愍をもつて此度は、分けて沙汰に及ばず、向後遅参の者どもは、急度沙汰に及び候、心得違いなくかねて相達しおき候通り、聞付け次第早速駈着け申すべし」

要約すると、今回の事件では、ことのほか人馬調達の遅れた村もあって不埒であるが、今回に限り処罰はしない。今後遅参があった場合はきっと処罰を行う、と厳しく命じる内容となっています。

この文面からも、江戸湾沿岸とその周辺の村々は、浦賀奉行や防備を担当する諸大名の厳しい強制を伴った管理のもとにおかれ、さらに、厳しい夫役も課せられる苦しい状況に置かれていたことがわかります。

 

「知られざる鎌倉」発掘プロジェクト第一弾「鎌倉これあらた(維新)」全体図

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