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更新日:2019年1月4日

鎌倉市の歴史

ほんのちょっぴり鎌倉市の歴史を探ってみよう。
はるか時を越えて…

 鎌倉の歴史は古い源氏とのつながり鎌倉幕府幕府滅亡鎌倉の衰退江戸中期から「観光地化」横須賀線開通関東大震災近代

 鎌倉の歴史は古い

旧石器時代の石器が常楽寺(じょうらくじ)裏手の粟船山(あわふねやま)で発掘されており、鎌倉の地に、最初に人が住んだのは、今から1万年以上前の旧石器時代のころと思われます。
縄文時代、弥生時代・古墳時代の遺跡・遺物も見つかっており、鎌倉の歴史・文化の古さが感じられます。
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 源氏とのつながり

平安時代に相模守(さがみのかみ)だった源頼義(みなもとのよりよし)が戦で勝利した際に源氏の氏神(うじがみ)である京都の石清水八幡宮(いわしみずはち まんぐう)を勧請(かんじょう=神仏の分霊を他の場所にもまつること)し、1063年(康平6年)鶴岡八幡宮(元八幡)の社殿を造営しました。
また頼義の子、義家(よしいえ)は1081年(永保元年)八幡宮の修理を行ったともいわれ、1145年(天養2年)には頼朝の父、義朝(よしとも)が寿福寺(じゅふくじ)のあたりに住んでいたそうです。
このように源頼義以来、源氏と鎌倉は深いつながりを持っていたようです。
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 鎌倉幕府(1192~1333)

12世紀末、源頼朝は源平の合戦で平氏を滅ぼし、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、鎌倉に幕府を開きました。初の武士による政治がこの時から始まり、19世紀中ごろまで続く武家政権の基盤が作られました。 幕府を開いた頼朝は、幕府の組織を整えるとともに都市づくりを開始、都市づくりがほぼ完成した1230年ころになると、幕府は全盛期を迎え、鎌倉は政治、軍事、外交、文化などあらゆる面で日本の中心地となりました。
源氏が3代で絶えた後も、頼朝の妻政子の実家だった北条氏が実権をにぎり、その下で、京都をしのぐ事実上の首府でした。最盛期には3万人もの人口を数えたといわれています。
経済の発展に伴って、当時の築港である和賀江島(わかえじま)を通じて中国の宋や元との交易も盛んに行われ、禅宗、禅宗様建築、仏像彫刻、彫漆など様々な中国文化がもたらされました。
大仏の造立、建長寺や円覚寺など禅寺の建立が盛んだったのもこのころです。
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 幕府滅亡

幕府は1333年(元弘3年)に新田義貞(にったよしさだ)により滅ぼされました。力のある武士の間で権力をめぐって戦いが続いた後、足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都に室町幕府を開きました。
鎌倉には東国10か国を支配する鎌倉府が置かれ、それなりのにぎわいは保たれていたそうです。
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 鎌倉の衰退

室町幕府と鎌倉府が対立。1455年(康正元年)、戦いに敗れた鎌倉府のリーダー足利成氏(あしかがしげうじ)は下総国(茨城県)古河に逃げ、鎌倉は急速に活気をなくし、農業と漁業の村になってしまいました。
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 江戸中期から「観光地化」

江戸時代に入ると社寺は復興していきます。
鎌倉は参拝客が訪れる半農半漁の門前町(もんぜんまち=中世末以降の寺院の門前に発達した町)になっていました。
また、17世紀後半、徳川光圀(とくがわみつくに)が「新編鎌倉志」を編んだこともあり、江の島の景色とともに、史跡めぐりを楽しむ江戸の町人も増えていきました。
江戸時代の後半には鎌倉図絵なども多く出回るようになり、鎌倉の「観光地化」は既にこの頃からはじまっていたようです。
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 横須賀線開通

1889年に横須賀線が開通すると、鎌倉は再びモダンな人たちの海水浴場として、別荘地や住宅地として、注目されるようになります。温暖な気候と恵まれた自然、歴史と文化の伝統を愛する人々は多く、昭和に入って作家や文人たちが次々に移り住んで「鎌倉文士」という言葉さえ生まれました。
第二次大戦の戦争の被害にほとんどあわなかったために、木々の緑に囲まれた落ち着いた街が残り、戦後ますます人々が訪れるようになりました。
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 関東大震災

1923年(大正12年)9月1日に関東地方南部を震度8クラスの大地震が襲いました。死者・行方不明14万2千8百名、全壊建物12万8千棟、全焼建物44万7千棟という大災害がもたらされました。
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 近代

東京から電車で1時間ほどの鎌倉は、1千年の歴史と文化、自然、そして、時代を先取りした新しいセンスを味わわせてくれる古都として、年間2千万人もの来訪者で賑わっています。
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