ここから本文です。

更新日:2016年4月26日

玉縄城跡(たまなわじょうあと)

戦国時代の典型的な山城で「当国無双の名城」でしたが、現在は学校や住宅の造成により、城の面影の大半は失われています。

築城と戦歴

1512年(永正9) 北条早雲(伊勢新九郎長氏)が三浦道寸攻略のため築城。

1526年(大永6) 房州の里見氏が鎌倉に乱入し、初代城主氏時が戸部川(現柏尾川)のほとりで防戦。

1561年(永禄4) 上杉景虎(謙信)が小田原を攻めるが堅固のため、鶴岡八幡宮へ参拝し管領になった報告をしようと鎌倉へ引き返した。このとき、2代城主綱成の玉縄城を攻城しようとしたが、用意も十分でなかったので、長尾弾正にまかせて鶴岡八幡宮に詣でたという。

1569年(永禄12) 甲州勢の小田原攻めのとき、玉縄城北方を素通りし、藤沢の大谷城を落とす。

1590年(天正18) 豊臣秀吉の小田原攻めのとき、4代城主氏勝は山中城へ援軍に出掛けたが、山中城は落城したため恥辱を感じた氏勝は玉縄城で籠城。秀吉の命で徳川家康は、氏勝の叔父にあたる大応寺
(現龍宝寺)の住職良達を通して降伏を説得し、開城となった。

その後、水野正忠に預けられるが、1619年(元和5)に廃城。

城の構造

玉縄城は、天然の要害の地である丘陵に、空堀や土塁、曲輪(土塁などで囲まれた平地)などの防衛施設を加えた山城でした。本丸跡は現在、清泉女学院の校舎、校庭の位置にあたり面影の大半は失われています。当時を偲ぶのに分かりやすい地形は、七曲り、ふわん坂、諏訪壇があります。

七曲り

急坂でいくつにも折れ曲がっていることから七曲りと呼ばれています。玉縄城側に登りつめた両側は土塁となり、土塁の内側は平場で下から攻め上がる敵を攻撃、防御できるようになっていました。

ふわん坂

急傾斜の道で、坂の両側にかつては坂道を見下ろす平場があり、道を防御できるようになっていました。

諏訪壇

本丸の東側にあった土塁。玉縄城の最高部で長方形の平地になっています。諏訪壇は城内の最も高い場所で見張り台の役割を果たし、また城主が最後に立てこもる場所であったとも考えられ、城の守護神である諏訪神社がまつられていたと伝えられています。現在は、清泉女学院の敷地内であるため、見学には事前に学校の許可が必要です(土・日・祝日・学校行事のある日は不可)。

場所

城廻(現在、清泉女子学園)
大船駅下車 徒歩15分

 

関連リンク