玉縄城主と小田原城主

 大船駅の西北の標高50〜80mの低丘陵に玉縄城跡があります。かつては江戸・川越の城とともに関東の三名城と言われていました。堅固な城で 安土桃山時代後の城と違い、石垣や天守閣はないが、敵を迎え撃つための切通し、敵をとどめる切(堀)割や土塁がそのまま残っていました。写真でわずかに見ることができます。

 しかし、今は清泉女学院の校舎が建っています。見学する には許可が必要です。
 玉縄城は、北条早雲(伊勢新九郎長氏・出家後早瑞と号す)が永正9年(1521年)に小田原城の支城として相模・三浦をおさえるためにつくった山城です。早雲はこの城を築くことで三浦道寸を攻め滅ぼすことができました。

 最初の城主は小田原城主・氏綱の弟・氏時で、6代続きました。
 その間、玉縄城を舞台に大永6年(1526年)房州の里見氏との戦、天正17年(1589年)から天正18年にかけての家康との攻防を経て、開城し秀吉の 側近の脇坂氏の預かるところとなりました。その後、水野忠守が預かったが、江戸時代の一国一城制度により廃城になりました。歴代の城主は次の通りです。

玉縄城主
@北条氏時(うじとき)ーA為昌(ためまさ)・・B綱成(つなしげ)ーC氏繁(うじしげ)ー D氏舜(うじとし)ーE氏勝(うじかつ)

小田原城主
@北条早雲(伊勢新九郎長氏)ーA氏綱ーB氏康ーC氏政ーD氏直 (伊勢早瑞)