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更新日:2017年3月30日

法華堂跡に並ぶ薩摩藩・長州藩ゆかりの墓について

法華堂跡

治承4年(1180年)に賴朝が鎌倉に入り、屋敷を構え整備した大蔵幕府跡は、現在の雪ノ下三丁目、西御門二丁目にあたり、清泉小学校と閑静な住宅地となっています。その中央あたり、県道金沢街道からまっすぐ北へ向かう小道が小高い山にぶつかる手前、よりとも児童遊園を過ぎ、白旗神社の前の階段を上ると、中腹に層塔の賴朝の墓があります。ここは賴朝の法華堂跡といわれ、賴朝の持仏堂があった場所とされています。
その東の谷の中腹に岩窟が3つあり、今も大きな石碑と玉垣で囲まれた墓域があります。左から毛利季光の墓、大江広元の墓、島津忠久の墓とされており、この墓域までは下の山裾の道から二筋の石段が造られています。上った先にある中段の平場は、平成17年の発掘で、執権北条義時の法華堂跡であるとされ、この山林一帯は島津家・毛利家から鎌倉市へ寄贈され、国指定史跡となりました。

法華堂については、江戸時代初期の地誌『新編鎌倉志』(貞享2年(1685年))には具体的な記述がありますが、島津・大江の墓については何も言及されていません。旅行記のひとつ『相中紀行』(寛政9年(1797年)田良道士明甫著)には、法華堂周辺のことを「此法華堂の後の山の上石段を登りて賴朝の墓有。(略)近年薩摩侯の御再興有て玉垣・石階等新になれり」と記述されており、小さく簡素な墓塔だったものを島津氏が改修したことがわかります。
時代が下って『江の島紀行』(安政2年(1855年)・李院妻女)には、「坂をのぼれば、賴朝公の五輪の塔有、玉がき、鳥居は安永の頃薩摩の太守より寄付せられしよし、右のかたの坂をのぼりて大江広元・島津忠久の墓へまいる」と島津・毛利(大江)の墓に関する記述がされています。

島津忠久の墓

島津氏は、藩祖島津忠久を賴朝の庶子とする考えから、鎌倉との関係を強く意識し、賴朝の命日(正月13日)や忠久の命日(6月18日)には藩主、名代が毎年のように賴朝の墓、法華堂に詣でていました。このことは、墓守役をしていた雪ノ下大石家に寛永期以降の記録が残っています(「御屋形様御参詣並御名代記留」)。
安永8年(1779年)島津家第25代当主(薩摩藩第8代藩主)重豪(しげひで)が、賴朝と島津家の関係を強調するかのように、相承院に伝わる伝承によって賴朝墓の近くに忠久の墓を修造し、同時に賴朝墓を改修し、金沢道(六浦道)に面して「賴朝公石塔及元祖島津豊後守忠久石塔道 安永八年乙亥二月薩摩中将重豪建之」の碑を建てました。当時はすでに多くの旅人が鎌倉を訪れるようになっていたので、目を惹いたことでしょう。
地誌『鎌倉攬勝考』(文政12年(1829年))には、「右大将家廟」(賴朝の墓)の東山の上に「島津忠久墓」の絵が描かれています。岩窟やぐらの前に二重の柵や扉も見られ、右大将家廟から山道をたどると参詣できるように描かれています。

大江広元・毛利季光の墓

前記地誌『鎌倉攬勝考』には「島津忠久墓」の左隣に同じような岩窟が描かれ、柵で囲われていますが、「土人(土地の人)ら大江広元の墓なりというは訝(いぶか)しき説なり」と注釈があり、北条義時の墓である可能性も示唆しています。このやぐら洞窟を大江広元の墓と断定したのは、文化14年(1817年)長州藩士村田清風の鎌倉御墳墓調査の時とされています。賴朝を補佐した大江広元は、藩祖毛利季光の親であるため、頼朝は毛利家の遠祖と言える存在なのです。

長州藩では、宝暦の藩政改革において、藩主が藩祖元就との誓約の中で改革を推進するという考えに至っており、神霊化した藩祖元就と遠祖大江広元の威力で改革を推進するため、歴代藩主の墓地の修理、伝説のようになっていた遠祖の墓地の発見再興と祭祀の継続こそが現実的な課題だったようです。
文化14年(1817年)9月17日から23日まで、村田清風は、大江広元と毛利季光に関する歴史資料を求めて、鶴岡八幡宮の別当坊、相承院、浄国院にある古文書や位牌の調査、旧蹟の発掘作業など徹底的に考証を行いました。その結果、確たる証拠は見つけられなかったものの、伝承が残っていることを縁として大胆に墓所を決めました。大江広元の墓は相承院の言い伝えに「忠久公之御墓之脇之ヤクラ広元公御墓所ト古来ヨリ申伝エ候」と筆記されていたことを根拠としたのです。
また毛利季光の墓は、八幡宮の西側の鶯ヶ谷の該当地から出てきた墓の臺石を根拠としたといわれています。「伝説の虚実が問題なのではなく、神霊を祭ることこそが大切であり、そのことが家筋の「繁盛」となる。」という考えだったようです。そしていったん決めると、永続的に維持管理、法要や参詣を実行し、文政6年(1823年)には「大江広元公略伝石碑」(相承密院信澄撰)を建立。鶯ヶ谷には「大江季光公略伝石碑」(浄国密院照道撰)を建立しました。それによって藩の自己認識、歴史意識が形成され、幕末から明治維新の変革期に向かって行ったと言っても過言ではありません。
墳墓調査には鎌倉の側でも相承院、浄国院、墓守役の大石家などが言い伝えや書き物を提供するなど、大いに協力しました。その交流は明治になっても続き、清風を追悼し大石氏を中心に鎌倉で大規模な俳句会が催され、その句碑が墓所の山裾に建立されています。

「鎌倉の御事蹟を探り探りて、むかし語りきくきくむしる尾花哉 清風」

墓所の整備

参詣道は、賴朝の墓から山道を斜めに伝って辿る、いわゆる旧参道が使われていましたが、薩摩藩は天保年間に、下から忠久の墓所へ直接登る正面の道を造りました。その後、長州藩も嘉永6年(1853年)から相模湾警備のため長州から訪れていた藩士たちが参詣するため、安政5年(1858年)に参詣道を整備して、警備に当たった藩士たちからの献納で、「西阿大江公御塔前」および「覚阿大江公御塔前」が大きく刻まれた石灯籠を建てようとしました。しかし、これは法華堂の山全体を統括していると認識している薩摩藩にとって認めがたいことであったため、この石灯籠は長らく浄国院に置かれることとなります。その後、石灯籠は大石家の周旋により、明治5年(1872年)3月にようやく毛利家の墓地参道に建立されました。

また、明治7年(1874年)11月17日島津久光が忠久の墓に詣でたとき、手前の大江広元の墓の前で供の者が待機するのは「神慮に不敬」と大石が再び島津家の参道整備を申し出、即承諾を得て、両家の代表が協議に入りました。江戸時代には御朱印地で相承院の管轄であったこの山が、明治初年の神仏分離令と上地令(明治4年)により島津家と毛利家の土地所有と両墓域の境界線の明記となって明治10年(1877年)にようやく落着しました。その記念碑(撰文従四位水本成美)が島津家の墓地参道下に立っています。
さらに、鶯ヶ谷に安置されていた毛利季光石碑と墓石五輪塔を賴朝墓東谷、大江広元墓の横に移設したのは、大正10年(1921年)12月のことでした。

岸本覚「鎌倉薩長藩祖廟と明治維新」(吉川弘文館 田中彰『幕末維新の社会と思想』所収1999年11)参照

「知られざる鎌倉」発掘プロジェクト第一弾「鎌倉これあらた(維新)」全体図

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