かまくら観光 > 明治維新期において鎌倉宮に求められた役割

ここから本文です。

更新日:2017年3月27日

明治維新期において鎌倉宮に求められた役割

kamakuragu

鎌倉宮の創建

明治新政府が「王政復古」「祭政一致」のスローガンのもとに天皇を中心とする中央集権国家の形成に邁進していくにあたり、徳川家康の死後、家康を神格化して全国に建立された東照宮に替わり、新政府による新しい価値の創出が必要とされました。
これに関する維新期の動きの中で、平田篤胤門下の国学者らを中心に営まれた招魂祭(天皇のために戦い亡くなった者を慰霊する行事)は、討幕派志士の間の連帯の証としての意味を持って行われており、慶応3年(1867年)に尾張藩主徳川慶勝が「楠公社創建に関する建白書」で、後醍醐天皇に応じて鎌倉幕府の討幕を果たした楠正成を祀る「楠公社」の創立とともに、摂社として「招魂社」を創建するよう嘆願するなど、招魂祭は楠公祭と不可分の関係として展開し、明治維新を生み出し、その激しい流れを作り上げた精神運動の一つの要だったと考えられています。
この嘆願を受けて、明治新政府はこの精神運動の流れを新たな国家秩序形成のための手だてとし、慶応4年(1868年)4月、兵庫に楠木正成を祭る神社の創建を計画しました。これは明治5年(1872年)に竣工し、湊川神社と命名され、最初の別格官幣社(国家のために特別な功労があった人物を祀る神社として明治政府が新設した神社の社格)に列せられることになります。

これと同じ流れの中で、徳川に対する織田信長や、豊臣秀吉を再評価し、豊太閤社や建勲社の造営も行われましたが、楠木正成顕彰に続いて、南朝関係殉難者の神社創建が促進されるようになり、その中で、楠木正成に次いで最も早く取り上げられたのが、後醍醐天皇の息子で、中先代の乱(1335年)において鎌倉幽閉中に殺された、大塔宮護良親王でした。
護良親王については、慶応4年(1868年)4月の段階に、東海道の先鋒総督橋本実梁、副総督柳原前光と、護良親王が幽閉されていたとされる東光寺の本寺建長寺との間で、護良親王が幽閉されていた土窟の様子などに関する取調べについて文書が交わされています。(建長寺文書、海蔵寺文書)
同年7月23日には京都河東操練場において、5月25日の楠木正成に次いで護良親王の霊を祭る祭典が執り行われ、翌明治2年(1869年)2月13日には、護良親王終焉の地に神社を創建する旨が達せられ、岩尾助之丞を知事とする営繕司が設置されました。
同年2月25日に寿福寺に廻達されてきた営繕司名の触には、大塔宮御社造営が「千載之御盛業ニ付 皇国有志之心ニ換テ近郷之衆庶協心努力」して成功を遂げるべきことが述べられ、意見がある場合には速やかに申し出るよう記されています。この触が廻達された範囲は鎌倉地域を中心とする宝戒寺他52ヵ寺に及んでおり、神仏分離策の中で寺院に対しても鎌倉宮の創建にかかわることを求め、新政府の政策の浸透に努めています。
これ以降「(神仏)混淆之汚習」を去り「淳厚之古風」をもって神社造営に奉仕し、同年2月23日に十二所村などから材木を納めさせるなど多くの村人の参加をもって造営に取り掛かり、3月11日には鶴岡八幡宮神社らの手によって地鎮祭が執り行われています。

造営開始から48日後の4月10日には社殿が完成し、営繕司から紙祇官へ社殿の受け渡しが行われ、6月14日には宮号が「鎌倉宮」と決定、勅額を賜ることとなりました。
御神体については、明治2年2月に鶴岡八幡宮の神主大友上総の申し入れによって武州中里村(東京都北区)円勝寺に伝わる護良親王の冠兜を御神体にするよう求める願書が提出されるなどありましたが、6月になって梶井宮伝来の「護良親王御甲 御胴前後 御袖左右」が御神体と決まりました。
この後7月22日に勅旨として飛鳥井雅典らが参列してようやく鎮座祭にこぎつけ、2日後の23日に初めての例祭が執行されています。なお、鎌倉宮の管理については鶴岡八幡宮が仮勤番に任命されています。

鎌倉宮が建立された地は二階堂村の東慶寺領を中心とし、ほかに旧幕府領や覚園寺領を含んでいました。この土地が鎌倉宮の御用地となったことから、ここに住みあるいは農地を所有していた村人たちに対しては明治2年(1869年)4月に合計68両の手当金が支払われています。二階堂村には火気取り締まりの夜番に対する手当金も支払われており、ここに「大塔宮御社番衛」としての二階堂村の姿が浮かんできます。

明治天皇の鎌倉行幸

鎌倉宮の創建は、前述のとおり天皇制国家の形成の中で大きな意味を持って行われたものですが、明治6年(1873年)4月に明治天皇の鎌倉行幸が行われ、鎌倉宮への参詣が実現することになります。この行幸は、同年2月14日から教導団司令長官心得陸軍少将曾我祐準を指揮長官として鎌倉の地で行われていた陸軍野営演習を親覧することを目的とするものでした。以下、『明治天皇紀』の記述に基づき、明治天皇の鎌倉行幸の様子を見ていくこととします。

明治天皇は4月14日の午前6時30分に皇居を出立、宮内卿徳大寺実則・宮内大輔万里小路博房の他侍従・侍医および御練兵御用掛岡田善良らを従え、太政大臣以下百官の奉送裡に新橋停車場を出発。神奈川停車場からは馬車に乗り保土ヶ谷を経て10時に戸塚の御昼餐所に到着、11時30分に騎馬で戸塚を発御、途中小袋谷村で演習を天覧し、午後1時30分に軍楽隊の奏楽の中、鎌倉の行在所となった鶴岡八幡宮祠官筥崎博尹宅に到着して初日の行程を終了します。

翌日15日は大荒れの天候でしたが、天皇は午前9時に行在所を出門、鶴岡八幡宮前における演習参加舞台の点検式・分列式に臨み、終わって八幡宮裏の大臣山に登って教導団歩兵第一大隊・同附属歩兵五番大隊の攻守太閤演習を閲し八幡宮へ参拝。午後は軍楽隊の奏楽を聞き、八幡宮の宝物などを閲覧しています。

16日は雨は止んでいたものの風は引き続き強く、午前8時30分に鎌倉宮を参拝、玉串を奠して幣帛料・神饌料を供しています。この後10時10分には騎馬で江ノ島へ赴き、地元漁民によるあわび採りを親覧。午後2時過ぎに藤沢に到着すると、行在所の清浄光寺に入り17日に東京に戻っています。

以上、3日間にわたり天皇は鎌倉行幸を行いましたが、鎌倉の民衆はこの天皇行幸をどのように眺めていたのでしょうか。

まず、この行幸のために民衆は道路や橋梁の修繕などを負担させられ、江ノ島から藤沢にかけての住民は家業に従事する時間を割かれ大いに迷惑だと語っており、保土ヶ谷・戸塚辺りでは、大名などの通行とは違って一文の得にもならず負担ばかりかかって迷惑だと言っていたようです。
また、鎌倉に到着した天皇を拝しようと集まる人々を目当てに、八幡宮の祠官宅前では汚い衣服をまとい背中に刺青をした30歳くらいの男が体中に蛇を巻きつけたり喉へ差し入れるなど大道芸で見物人から銭を集めるなど、行幸で一儲けを企む者が空き家などを借りて商売をしたため、家賃が高騰したそうです。しかしながら、長谷や材木座では見物人も予想よりも集まらず、稼ぎに来た者の中には、家賃の高さに苦しみ、後悔して引き上げる者もあったようです。
さらに、見物人の中には、通行中の天皇に対して直立したままで礼もしなかった者もいたようです。
(出典:大日方純夫「民衆は天皇をどう見ていたか-1873年”鎌倉行幸沿道探索書”を手がかりとして-」『日本史研究』323号)

つまり、未だ天皇を中核とする中央集権的国家に組み込まれていない民衆にとって、この天皇行幸は新政府に対する不満から、旧幕府を懐かしむ風潮を背景として、迷惑なものであり、金儲けの場所であり、さらには無関心の対象だったのです。

しかしながら、その一方で、16日に天皇が親覧していたあわび取りの中で遭難した漁師が無事に生還したことについて、天皇が親覧していたからだ、と感じる者もあり、その漁師自身、天皇の前で自分の家業で死ぬことは本望であると述べていることから、天皇を神的権威として捉えている者がいたことも確かであり、ここに天皇制神話に組み込まれていく民衆の姿がほの見えていると言えます。

湊川神社や鎌倉宮の造営の後も、鎌倉にある葛原岡神社(後醍醐天皇の抜擢を受けて本家の日野資朝とともに討幕計画に参画した日野俊基を祭神とする神社)のように天皇制国家の形成に寄与する、天皇のために戦った南朝関係者を神格化し祀る神社の創建は続き、天皇制国家の形成が進んでいくこととなったのです。

「知られざる鎌倉」発掘プロジェクト第一弾「鎌倉これあらた(維新)」全体図

map

この往事案内板は、上記の市内5ヶ所に設置されています。もしご興味がおありでしたら、足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。

お問い合わせ

所属課室:市民生活部観光課観光担当

鎌倉市御成町18-10 本庁舎1階

電話番号:0467-61-3884

メール:kankou@city.kamakura.kanagawa.jp