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更新日:2017年3月27日

長州藩士・吉田松陰と瑞泉寺

松陰吉田先生留跡碑

山口県萩市出身の吉田松陰は、幕末の動乱期を兵学者、思想家、教育者、改革者としてその熱情的な生き方でまわりに刺激を与えながら30歳の短い生涯を閉じました。時代を越えて人々に影響を与えて来たその人物の真実に迫ることは易しいことではありません。いわば「未完の人」と言ってもよい松陰について、これまで作家や歴史研究者によって多くの名著が残されています。早くは、徳富蘇峰『吉田松陰』(民友社 明治26年12月)があり、昭和9年から11年にかけて山口県教育会が編纂した『吉田松陰全集』(岩波書店)、歴史家の奈良本辰也は昭和26年に『吉田松陰』(岩波書店)を、またフランス文学者河上徹太郎が、『吉田松陰-武と儒による人間像-』(文藝春秋 昭和43年12月)をエッセイとして著しています。
平成2年夏には、松陰生誕160年を記念して、山口県と山口県教育委員会が山口県立博物館において、テーマ展「生誕百六十周年記念 維新の先覚吉田松陰」を開催しており、松陰の思想と行動は、今もなお精神的遺産として受け継がれているといえます。

吉田松陰の生涯

吉田松陰は、天保元年(1830年)8月4日、父長州藩士杉百合之助・母瀧の次男として長門国萩松本村(萩市)に生まれました。幼名は寅次郎ほか、名は矩方、字は義卿または子義、松陰・二十一回猛士と号しました。5歳の時、代々毛利家に仕える山鹿流兵学師範の叔父吉田大助の仮養子となり、翌年大助の死により吉田家を嗣ぎます。実家の杉家に同居し、父百合之助や叔父玉木文之進から厳格な教育を受け、天保10年、10歳にして藩校明倫館にて家学を教授し、翌11年には、藩主毛利敬親の面前で『武教全書』を講じました。兵学の知識のほかに、家学後見の指導により、当時の世界の形勢への眼を開き、嘉永2年(1849年)20歳の時には「外寇御手当御内用掛」を命じられ、須佐・大津・豊浦・赤間関などの海岸防備の実情を視察しました。
これまでの20年の後に来る10年は、広く江戸と諸国遊学の旅に始まり、各地で多くの碩学から学び、欧米列強の圧力が強まるなか、国の独立をいかに保持するかという課題を身をもって実行していく年月だったようです。嘉永3年から6年までのあいだ、九州遊学・第1回江戸遊学・東北旅行・第2回江戸遊学・長崎旅行と続き、嘉永7年(安政元年)には下田での密航事件が起こります。

九州遊学は、嘉永3年(1850年)8月から12月まで、平戸・長崎などに遊歴し葉山左内など文武著名の人士を訪れる一方、中国および日本の海防関係の著述、また陽明学の書や会沢正志斎の『新論』など61冊の書物を読んで見聞を広めました。友人宮部鼎蔵(熊本)と出会ったのもこの旅でした。
翌嘉永4年3月には、藩主毛利敬親の東行に従って江戸に遊学し(第1回江戸遊学)、桜田の毛利藩邸を居所として、安積艮斎、古賀茶渓、山鹿素水、佐久間象山に学び、鳥山新三郎塾で長州および他藩の藩士と交わり時事を論じあったようです。鎌倉瑞泉寺へ伯父竹院和尚を訪ねたのは、この年6月のことです。
同年12月には、藩の通過証が届かないうちに、宮部鼎蔵らと東北へ旅立っており、水戸では会沢正志斎に会い、国史研究への眼を開かせられています。翌嘉永5年、会津・新潟・佐渡・秋田・弘前・青森・盛岡・仙台・米沢などをめぐり、4月に江戸に帰り、帰国謹慎を命ぜられ、亡命の罪で士籍および家禄を奪われ、父百合之助の育(はぐくみ)となりました。
しかし、松陰の才能を高く評価した藩主の温情で再び10ヶ年の諸国遊学の許可がおり、嘉永6年1月、江戸へ発ちます(第2回江戸遊学)。四国近畿東海をめぐるほぼ5ヶ月の旅の疲れを鎌倉瑞泉寺の竹院和尚のもとで癒やし、読書し、鎌倉江ノ島を巡りくつろいだようです。この直後、ペリーの浦賀来航に遭い、佐久間象山のもとで砲術と蘭学を学び、象山の思想的影響を受けた松陰は、時務策を論じた「将及私言」その他を藩主に上書する一方、海外視察のために密航を企てます。
ロシアの軍艦が長崎に来航すると聞くや、9月長崎に向かったが、船はすでに去っており、目的を果たさず、翌安政元年(1854年)ペリーが和親条約締結のために再航するや、3月27日夜、金子重之輔とともに下田において米艦ポーハタン号に上り外国への密航を懇請しましたが、受け入れられず、翌日自首して江戸の獄舎に投ぜられることとなります。
同年9月、連座した佐久間象山ともども自藩幽閉の処分となり、10月24日、松陰は萩の野山獄に収容されました。同行の金子は岩倉獄につながれ、翌年病死しています。この事件以後松陰の自由行動は終わってしまいました。

安政元年11月から始まった野山獄の生活では、読書と思索に没頭しましたが、入獄の半年後には、囚人たちの間で読書会が組織され、松陰は『孟子』を講義し、主著『講孟余話』が生まれました。
約1年の獄囚生活ののち、安政2年(1855年)12月、病気保養を理由に実家杉家に預けられ、2年半の間、いわゆる「松下村塾」の実質的な主宰者として、高杉晋作・久坂玄瑞・吉田栄太郎・入江杉蔵・野村和作(靖)・久保清太郎・前原一誠・伊藤博文など幕末維新に活躍する有為の人材の教育に従事しました。松陰にとって最も輝かしい時期であったといえます。松下村塾は表向きは漢学塾でしたが、松陰自身の強い実学指向の影響で当時の世界情勢やわが国の実情について考究する実践的な思想鍛錬の場でもあったようです。
しかし松下村塾の平和は長く続かず、安政5年(1858年)日米修好通商条約の調印問題をめぐって国内政治が混迷の度を深めると、松陰はこれに深く関わっていことになります。松陰は幕府による通商条約の無断調印を厳しく批判し、藩政府に上書などで働きかける一方、門下生を諸方に派遣して情報蒐集に務め、老中間部詮勝の要撃(待ち伏せ攻撃)や公卿大原重徳の西下策、藩主の参勤に際して藩主を伏見で三条、大原など討幕派の公卿と会見させるという伏見要駕策などを次々提起するが、それに反対する門下生との間で次第に異和を生じ、深い孤独感に陥り、その後、藩政府は再び松陰を野山獄に収容することとなります。

井伊大老による安政の大獄が始まっていたこの時期、安政6年(1859年)5月、幕府の命令で松陰は江戸に護送され、7月から幕吏の尋問が始まりました。梅田雲浜との関係を問うものであったが、自らの信念をもって幕府役人を感化教育しようとの決心で法廷に立った松陰は、自らペリー来航以来の幕府の一連の政策を批判し、あまつさえ幕府が全く知らなかった老中間部詮勝の要撃や公卿大原重徳の西下策まで自供したために、死罪の判決を受け、10月27日伝馬町の獄舎で処刑されてしまいます。家族、門下生ほかへの手紙、日記、処刑前夜に記した「留魂録」など多数の手記が残っています。
松陰は思想形成において、荻生徂徠の徂徠学の影響下にあった藩校明倫館と叔父玉木文之進の朱子学の影響を強く受け、陽明学などにも親しみ、自己の内面形成を重視する思想を形成しました。松陰が好んで使用した「至誠」はこの特質を象徴する表現でした。自分が至誠であれば、必ずや他人を感格しうるという強い信念で多くの優れた門下生を育成しましたが、それが政治的利害抗争の現場ではそのまま通用するものではなかったのです。

松陰の思想は、生まれながらの兵学者として、当時圧力を強めつつあった欧米列強に対して国の独立をいかに保持するかを課題とし、その過程で、国家的価値への覚醒や蘭学を通じての欧米文化への開眼、尊皇と敬幕、攘夷と開国、国家・天皇・将軍・藩主などへの忠誠観の相克など、日本の近代国家形成における思想的対立を、身をもって生きたところに形成されたものだといえます。その精神史的意味の究明は、その行き方の真摯さと30歳の若さで政治的に葬り去られたその生涯とともに、人びとにとって、常に尽きることのない課題として存在しているといえるでしょう。(『国史大辞典』本郷隆盛記参照)

鎌倉と松陰

江戸時代末期、鎌倉は、江ノ島、金沢とともに遊覧の地として、多くの旅人が訪れていました。しかし、吉田松陰にとっては、母方の伯父竹院和尚が瑞泉寺の住職を務めており、特別に親しみを持つ場所であったようです。

嘉永4年(1851年)3月、松陰22歳の年、藩主毛利敬親の江戸参府に従い兵学研究のため江戸に遊学しました。6月13日、親友とも言うべき肥後熊本藩の宮部鼎蔵(みやべていぞう)と共に鎌倉の伯父竹院和尚を瑞泉寺に訪ねました。和尚とは10年ぶりの再会であったようです。江戸への帰りは相模、安房の沿岸地方の海岸防備を視察しました。
次に松陰が鎌倉を訪れたのは、2年後の嘉永6年(1853年)5月25日でした。2年前とは、松陰の境遇に変化がありました。嘉永4年12月、宮部と共に東北旅行を計画しますが、藩から「過書」(関所通過証)が届く前に出発し、藩を亡命してしまうこととなります。その結果、1年後帰国命令が出され、世録は没収され、一介の浪人の身となってしまいました。しかし、藩主敬親の温情により、10ヵ年諸国遊学の願いが聞き届けられ、再び江戸遊学となります。
江戸到着の翌日早々、松陰は鎌倉瑞泉寺の伯父竹院和尚を訪れ、母瀧からの土産黍の粉を手渡しています。このときの再会は、喜びに満ちたもので、夜を徹して語りあかしたとのことです。瑞泉寺に逗留している間には、ゆっくりと水戸光圀編『新編鎌府誌』などの読書を楽しみ、鎌倉江ノ島の名所旧跡を訪ねています。
鎌倉では、寺の小僧を連れて、まず「大塔王土窟」「法華堂」に足を運んでいます。法華堂では賴朝公、島津忠久、大江広元の墓を訪れ、さらに「荏柄天神」から材木座「補陀洛寺」まで足をのばし、海浜を歩き遙かに富士を望み、夕方瑞泉寺へ帰りました。滞在の最終日には、竹院上人、長州からの僧恵純とともに、長谷の大仏、観音を巡り、七里ヶ浜の海辺を江ノ島まで歩きました。同郷の3人は日頃の悲喜を忘れ、故郷の話しに花を咲かせながら、龍口寺から化粧坂を経て帰途につきました。6月1日に江戸に帰るまでの5日間は、松陰にとって命の洗濯とも言える楽しいものであったようです。(『癸丑遊歴日録』参照)
次に松陰が鎌倉を訪れたのは、同年9月13日。5月の訪問直後に、ペリーの黒船来航があり、松陰は、江戸で師とする佐久間象山とともに浦賀で黒船の行動を観察しました。この衝撃は、松陰に海外渡航を決意させ、このことを伯父の竹院和尚に打ち明け、長崎に来航していたロシア艦船をめざして旅に出ますが、すでにロシア艦船は長崎を去っており、密航計画は失敗に終わります。
最後に鎌倉を訪れたのは、翌嘉永7年(1854年)3月14日、松陰が弟子金子重之輔とともに、ペリー艦隊の船で密航を企て、下田へ向かう途中に寺に立ち寄っています。(下田事件・下田踏海) 竹院和尚は、静かに一篇の詩を松陰に送っています。(土谷精作『鎌倉の吉田松陰』参照)

石碑の建立

「松陰吉田先生留跡碑」は、昭和4年12月1日に除幕式がおこなわれました。揮毫は徳富蘇峰、撰文は菅原正敬。除幕式祝辞は、早稲田大学湘南稲門会幹事長俵谷七郎次であった。祝辞には「思想国難、経済国難ヲ叫バルヽ今日、英雄ノ出現ヲ待望シ、ソノ典型タル吉田松陰先生ノ徳ヲ思フコト切ナルモノアリト謂フベシ」と当時の世相が語られています。
建立に至るいきさつは、それより2年前の夕刊「国民新聞」(昭和2年8月3日号)に掲載された徳富蘇峰の文章によって次の通り記されています。
その年の春、瑞泉寺松堂和尚が、「松陰先生の瑞泉寺における遺跡を不朽にすべく石を立てて表示したい。ご助力願いたい」と胸中を蘇峰に打ち明けた。かつて『吉田松陰』を著した蘇峰は、和尚の志に応えるべく、同好の石井積翠、阿部無仏をはじめとして、鎌倉に縁のある牧野内府(伸顕)、小泉三申(策太郎)らに相談した。7月には、建碑の場所を選定するため、同好一同は、鎌倉停車場から、敢えて旧式の馬車に乗って瑞泉寺を目指した。自動車では名所旧跡廻りには殺風景であるとのことだった。境内は大正12年の震災で方丈も開山堂も壊滅し、和尚は仮屋を建てて旧物を収拾していた。建碑の場所は、元山門前右側、本堂に面したユーカリの大樹の傍らを選んだ。嘉永6年5月25日、門を掃いていた伯父竹院和尚が甥の松陰を笑顔で出迎えた場所が、まさにその場所であったのだ。

件のユーカリの樹は昭和24年10月、残念ながらキティー台風で倒れてしまっており、今は見ることが叶いませんが、瑞泉寺に足を運ばれる際は、石碑を見ながら当時の情景に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

「知られざる鎌倉」発掘プロジェクト第一弾「鎌倉これあらた(維新)」全体図

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この往事案内板は、上記の市内5ヶ所に設置されています。もしご興味がおありでしたら、足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。

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