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更新日:2023年4月24日

青少年の居場所講演会「わたし」の居場所 内容公開

「育ちあう」、「生きあう」をテーマに、人と人がつながり、支え合える、悩み続けられる「わたし」の居場所について考える講演会を開催しました。

講演会写真2

出演

講師 

  明石さん

明石 紀久男 氏

NPO法人「遊悠楽舎」代表

2015年度から鎌倉市の生活困窮者自立支援事業「インクル相談室・鎌倉」の主任を務め、心理カウンセラーとして家族全体の支援を行う。

講師 

  加藤先生 

加藤 彰彦 氏

沖縄大学名誉教授

小学校教員、児童相談所のケースワーカーなどを経て沖縄大学教授、後に学長に就任。専門分野は児童福祉論、子どもソーシャルワーク論、社会福祉論

 

 

ファシリテーター

  上津さん

上江洲 愼 氏

認定NPO法人鎌倉てらこや理事長

経営者向けコーチング、個人・企業内キャリアコンサルティング等を行う傍ら、「認定NPO法人鎌倉てらこや」の理事長として「地域総がかりの教育」を広げている。

特別ゲスト

  日下部さん(背景白)

日下部さん

小学校4年生から不登校となり、22歳までひきこもりとなる。その後、加藤先生との出会いを経て、現在は、障がい者介護業に従事。自身の経験から居場所づくりに携わりたいと考えている。

 

講演内容

オープニング

上江洲●この場が、人と人がつながる場、支えあう場、悩み続けられる場、私の居場所、その私の居場所感を感じられるような雰囲気の元、皆さんとこの場を分かち合えたらいい。今のこの場が少しでも居心地良くなるように、会話をしてほしいなと思う。まずは挨拶から始めて、自己紹介をしたり、会場の雰囲気をどう感じているかなどを話してほしい。お互いにコミュニケーションをとると、お互いに居心地がよくなると思うので。それでは、講演を始めていきたいと思う。

加藤●わたしが小学校に上がる頃の学校というのは、今と全く違う。わたしは小学校に上がったとき、小さな分教場だった。10人くらいの1から3年生を2人の先生が教えていた。例えば大雨が降ったとき、遠くから来た子がびしょ濡れだった。そうすると、先生が自分が着ていたものを着せ替える。その子が着替えて出てくると、みんなが喜んでその子を取り囲む。なぜかというと、大好きな先生の服をその子が着ているから、みんな羨ましがっていたから。そんなことができた時代。先生と生徒がまるで親子のような繋がりで、子ども達も兄弟みたいだった時代。これが私の原点。それが今の時代は、理想的な夢のある時代からどんどん不安定な時代になり、人間関係も非常に複雑になっている。どうしたらもう一度取り戻せるかということがわたしの課題である。さまざまなところに行ってきたが、一貫して考えてきたことは、人と人との関係はどう取り戻せるかということ。

日下部●自分は小学4年生から22歳までずっと引きこもりの状態だった。22歳の時に外に出るきっかけがあり、引きこもりの人たちが通う居場所に行き、加藤さんやいろんな人と出会い、その中で自分が変わっていった。一番の気づきは出会いで変われるということ、いつまでもやり直しができるということ。今日は、引きこもっていた当時思っていたこと、感じていたこと、当時を振り返って思うことを話していきたい。先ほど、会場の話が出ていたが、すごく温かい雰囲気なので、話す人や聞く人という立場を超えて、皆さんと一緒に考える時間を過ごしたい。

上江洲●話し合う、語り合う、出会い、人と人との繋がり、いつでもやり直しができる、などのキーワードがいただけたと思う。

明石●生きていくとはすごいことだなと、ここ数日で特に強く感じる。ウクライナのこともあり、何の理由があって死んでいくのだろうと思うような人たちのことを見ていると、普通に寝て、普通に起きていることだけで、すごいなと思う。そういう空間を与えられている、持てているということだけで、すごいことだと思う。死なないで生きているということ自体が本当にすごいこと。「親を降りる」という本の中でも書いたが、生きるだとか生かすだとかではなく、生き合うということをテーマにして、誰かが生きてくれることによって、自分が生きているということを確認できる。例えば、鏡を見れば、今自分がどんな顔をしているか分かるが、今この場にいるわたしは鏡を見ていないから、どんな顔をしているかは分からない。だが、皆さんの反応を見て、自分の話が伝わっているかが分かる。人との関わりの中に、自分が存在できているということを感じるし、それを丁寧なものにしていきたいと思う。最近、引きこもっている家族がいる世帯というのは、話し合うということができていない。その状態をみて、我々も話せているんだろうかと思う。話し合うということに本当に慣れていない。情報共有と事務連絡は日々していると思う。自分の想いとか気持ちを語る、譲り合うのではなく、話し合う。話し合うことで折り合いを付けていく。それは、生き合うと同じで、支え合うとか、頼り合うとか、助け合うという、「合う」。それは常に他者との関わりを作る。そこで自分がもらえるもの、自分に返してもらえるものが生まれてくる。仕事をしていても、話し合えていないと感じる場面がある。仕組みの中にはめ込んでしまうことに慣れてしまっていて、それが当たり前になっている。その感覚、その視点で、生活とか人が生きているその姿を見ていくということに慣れてしまっている。だが、そうではない。その人が、どう生きようとしているのか、今何に悩んで、何に苦しんでいるのかということを知ることから、遠く離れてしまっている。相談員として仕事をしていても、そういったことを強く感じる。こちら側の正しさを当てはめて、あんな風にしているからダメだというようなものの見方をしてしまう。例えば、学校に行けない、行きたくないと言っている子どもがいるときに、行かないとだめだという自分の中にある価値観からスタートするということが、まず間違えている。あるいは、引きこもっている、外に出られないという状況にいるということを大切にできない我々の有り様は、偏った視点でしかものをみれていない。
自分たちの持っている価値観、自分の中にある正しさについて、もう1度整理をしていくべき。それをするためにこそ、話し合うことが必要。今までの時代に求められてきた、逞しさ、強さではなく、これからは、弱さをお互いに大切にしあえる時代になっていくのではないか。

上江洲●私の中にある正しさを捉えなおす、話し合う、つらさを出し合う、強くあることを前提とせず、お互いに弱さを大切にし合う、「○○し合う」ということが大事だと分かった。

ありのままを受け入れてくれる人がいることで

加藤●私は大学を卒業して、小学校の教員になった。教員はとても難しくて、子ども達に好かれているかわからない。教師と子どもの関係をどうしたらいいのか、すごく悩んでいた。そんな時に、しゃべらないし笑わない女の子がいた。レイコちゃんという子。なんとかこの子を笑わせたいと思った。あるとき、自由な絵を書いてもらったとき、レイコちゃんの絵を見ると、その絵が雲が描いてある馬の絵だった。馬が雲の上を飛んでいるという絵。すごいなと思ったので、次の授業の時に絵を額に入れて貼った。子ども達は、馬が空を飛ぶのはあり得ないと言った。ふつうは馬が空を飛ぶなんて誰も思っていない。天馬の宗教画を子ども達に見せた。馬は空を飛ばないが、空を飛んでいる馬を想像して描いたことは、素晴らしいことだと言った。子どもたちは拍手をした。これを描いた人は手を挙げてというと、レイコちゃんは下を向いた。レイコちゃんが描いたものだよと言うと、子ども達は驚いて、授業が終わったあと、レイコちゃんのところに行き、どうやって描いたのかと質問をしていた。みんなから質問をされているときに、レイコちゃんが笑った。これが、彼女が変わっていったきっかけになった。

我々大人は、まじめな人であればあるほど子どもを叱る。叱ると怒るは違う。怒るは感情的に言うことだが、叱るは理論的に言う。叱る人は、親であろうと先生であろうと素晴らしい人。情熱があり、子ども達のことが大好きな人が叱る。この叱るというのは、心理学的にいうと、叱る方や怒る方は非常に快感。叱る方も、どこかでつらいことや悩んでいることがあって叱る。しかし、叱られた方は、逃げるか拒絶するか戦うか従うかのどれかになる。叱られた方はストレスが溜まる。ものすごくマイナス思考になっていく。叱る方もどんどん止まらなくなってしまう。結果としては何も生まないという風に心理学的には言われている。やったこと自体を認める、受け止めるということが、その人にとってはうれしいこと。絵を褒められて、認められるとレイコちゃんが何が変わるかというと、絵を描くときに自由に描けるようになる。好きな色を使えるようになっていく。人間はありのままで認められるということで変わるということを、小学校の教師をしていて学んだ。

そのあと、横浜の寿町という日雇い労働者の街に行った。そこで子どもたちの担当になった。その子たちは学校にほとんど行かない。日雇い労働者のお父さんたちに子どもがついて回って飲み屋に行ったりしているため、朝が起きられない。だから学校にも行かない、勉強もできない、字が読めない、話すのも嫌がる。その子たちを何とかしていくことが横浜市の方針で、わたしはその担当だった。部屋を作って、子どもたちに昼間は遊びにおいでと言っても来ない。たくさんの食べ物を持って公園へ行き、子ども達と一緒に食べながらおしゃべりをしたときに、子ども達に教えてもらおうと思った。どうやったら来てくれるか子どもたちに聞くと、最初は話さなかったが、だんだんと話してくれるようになり、3つの条件を言った。子ども達だけでいさせてくれること。好きなことをさせてくれること。大人がいるとしたら、若い女の人。子ども達は、受け止めてくれる人、お母さんみたいな人を求めている。
次に市内を歩き回り、大学生のボランティアを募集してくる。そうすると子どもたちがのぞきに来るようになり、好きなことをしだした。子ども達が集まる場を作るときに、大人側が考える。どうすると教育にいいだとかではなく、子ども達が本音で、どんなところなら行きたいかを聞く必要がある。場所によって時代によって違うと思うが、子ども達が本当に行きたいと思っている場所を作っていくことが大事だと学んだ。
非常に社会的な環境が悪いところの子どもたちが、大学生を中心にして様々なことを始めていく。すると子ども達が大学生に勉強したい、教えてほしいと言い出した。大学生は必死に人に字を教えるための勉強をしだした。人間にとって、言葉とはなにか、文字とは何かをもう1度学びなおした。つまり、子どもと関わることによって人生の忘れ物を学び直すことになる。
学校の先生とは教える人ではない。1番学ぶ人である。先生が学んでいる姿をみて、子ども達が学ぶ。学ぶということは、真似るということからきている。真似をするということは学ぶということ。子ども達は学ぶ存在。その子どもから学ぶのは大人だということを我々は忘れてしまっている。
児童相談所に行ったとき、中学3年生の不登校の子がいた。その子は部屋から出てこない、テレビばかり見ている子。わたしはその子の1番好きな物、ショートケーキを持ってその子に会いに行った。その日は、ケーキをとられて終わり。でも次の日、ケーキを2つ持っていき、二人で食べようと言うと、部屋に入れてくれて、紅茶を出してくれた。2人でケーキを食べながら、お話が始まった。
わたしは子ども達と関わるときに、良い悪いの問題ではなく、その子が1番好きなものにわたし自身が関心を持つ。好きなものをきっかけに子どもとの会話が弾む。子どもが好きなものをこちらが勉強する。
学校は、先生が子どもに教えることだから、子どもが嫌がる。子どもが主人公になって、子どもが学んで、子どもが知っていることを相手に教えるのであれば、楽しいから児童相談所にも行く。何が1番大事かというと、子ども自身が主人公として、その子が自ら学ぼうとする力を大事にすること。そのことを学んで、子ども達から教えてもらって、自分自身が子どもになりたいと思った。
今日、日下部さんがここにきて、この壇上に立つまで、大変だったと思う。ありのまま自分を見せることが、こんなにも素晴らしいことでこんなにも楽なこと、うれしいことだと、後で話すと思う。
日下部●私は12年間引きこもりだった。今は、自分と向き合うのに12年間必要だったと思えてる。引きこもりだったり、学校に行けなかったり、そういった人が身内にいる人に、きっと大丈夫だよということが届けばいいなと思いながら、自分の経験を話していこうと思う。
自分は当時、就労支援に通っていた。そこに加藤さんと奥さんのハルミさんがヨガを教えに来てくれていた。あまり加藤さんと話すことはなく、何か月か経ったとき、みんなでお茶をする機会があった。その時に加藤さんが、1人ずつに夢を聞いていた。
その当時わたしはマスクが人前で外せなかった。あまり人の目を見ることもできなかった。そのため、自分だけ夢を答えられずに終わってしまった。でも加藤さんは、「本当に自分が求めているものが目の前に来た時に、自分にアンテナを張っていれば、近づいてきたときに気付けるから大丈夫だ」と、目をみて言ってくれた。それがすごくうれしくて、加藤さんご夫婦が帰るときに、加藤さんを追いかけて、さっき言ってくれたことが今な気がするのだと話した。加藤さんは、大丈夫だよと肩をたたいてくれた。
そのあとは寿町に一緒に連れ出してもらい、いろいろな経験をさせてもらった。
自分は10歳の時に引きこもった。これといったきっかけはあげられなくて、いろいろなことの積み重ねだった。もともと人前や集団行動が苦手だった。強いてきっかけをあげるなら、学校で後ろの人と話していた時に、自分だけ注意され、机を前に出されてしまった。その時に頭が真っ白になってしまい、学校は自分がいられる場所じゃないなと思ってしまい、不登校になった。12年間、生きるとは何だろうということを、ひたすらに考え続けていた。
外に出るきっかけとしては、ある時、父が末期がんで亡くなってしまった。病院に行って、看護師と話すことをせざるを得ない状況になった。それをきっかけに人とやり取りするようになった。12年の引きこもり生活を全部親のせいにして、10年間くらい父とも口をきいていなかった。だが、入院した時に10年ぶりくらいに会話をした。そういったことがきっかけとなり、人と話すようになった。父が亡くなり、その時初めて人は亡くなるということを知った。心のどこかで、家族みんな200歳くらい生きるのではないかと思うほど、閉鎖的な家族だった。このままではだめだと、変わろうと思えた。父は亡くなったということで背中を見せて教えてくれたという風に捉えられた。
当時、家の中で電話はしづらい雰囲気だったため、公衆電話で役所に電話をし、一から人としてやり直せる場はないかと聞き、その時にフリースペースたまり場を紹介してもらった。そこがいわゆる居場所と言える場所だった。

人とのつながりを感じられる場所を

上江洲●ご自身も社会とのつながりを作り直しているところだと思うが、今のポジションに至った経緯をお聞かせいただきたい。
日下部●引きこもっている時代から、テレビでソーシャルワーカーの人たちを観ていて、こういう仕事がしたいなと何となく思い描いていた。居場所と出会い、こうなりたいなと思えるような大人と出会い、いつか自分の経験を生かせるようなことをしたいなと思い描いた。就労支援では仕事はなかなか見つからなかった。そんな時に、お世話になった女性がいた。その女性は、いつまで被害者というカプセルの中で外の世界を眺めているのかと叱ってくれた。当時聞いた時は、むかついたが、頭に思い浮かんだのは、ドキュメンタリーで観た、重度障がいがありながらも障がい者の自立支援をしている人のことだった。行くならここだと思った。むかついた勢いで家を飛び出し、下まで行き、見学をさせてもらい、働くことになった。そこは資格とか関係なしに、とにかく出会った人に少しでも多くかかわってほしいという場所だった。福祉という感じではなく、人と人とがつながる場所というところが初めての仕事場だった。
上江洲●改めて、自分がこうしたいなだとか、こうありたいだとか、こんな自分を大事にしたいななどの思いはあるだろうか。
日下部●当時自分が引きこもりの当時者であったとき、自分は支援が必要な人間なんだと思っていた。今思うと自分が欲しかったのは、支援ではなく、人とのつながりだったのだと感じている。当時はスタッフ批判をしている時期もあったが、思い返すと、今は自分が逆の立場になり、未来の自分に言っていたんだなと思う。自分が支援者と言われる人に対して思っていたことが、今全部自分に降りかかっている。その時の自分と生きていると感じている。今日のこの場のように、一緒に悩んだり、考えたりするような関係を作れたらいいなと思う。

仲間として、同志として、話し合う、“生き合う”

上江洲●会場からの質問に答えていただこうと思う。では、明石さんから。
明石●失敗談を聞かせてほしいという意見が来ている。「親を降りる」という本にも書いてる、いくつかの事例を話す。入院してもらう必要があると思い、病院に連れて行った。いざ、体重などを計ろうとしたところ、入院したくない、やっぱり嫌だと本人は言った。だが、看護師さんが彼を抱える形で連れて行こうとしたときに、彼が私に手を伸ばして、その手が私に届いたのに、持っていかれるような形で、入院させられてしまった。私は、病院から逃げるように出た。立ちすくんで動けなかった。本当にこれでよかったのかという思いがずっと残った。彼は今割と元気にしているが、結果オーライだとかそういうことではなくて、本人の意思をどこまで丁寧に大切にできたのか。こちら側の価値を押し付けなかったかという思いがあった。こういったことが自分の中で後悔のようなもので残っている。
弱さを認め合い、一緒に歩いていくということが、そんなことを言ってられない場合がある、という意見が来ている。1番最初に生きていることがすごいことだと話したと思う。私たちが支援とか援助とかの仕事をする中で、困っている人に会う。社会的に見ると例外的な状況にいる、社会の中にきちんと溶け込むことができなくて、はじかれて外に出てしまっている人を社会に戻すという考え方が強くあるのではないか。そうではなく、例外的な状況に見えるものが、作り出していく新しいものというのを、我々はきちんと見ていかないといけない。
木村さんや中井さんという精神科医がいて、よくその人たちの本を読む。木村さんは、関わるとか関係とかは言わないで、間という言葉を使う。私とあなたの間に命が存在している、その命をやり取りしているという捉え方。中井さんも木村さんも、統合失調症の方をずっと見てきている。その人たちが例外的な人間なのかというのは、決してそんなことはないと言う。それはみんなが持っているもの。それが、環境だとかその人に与えられた状況によって、強化されたことにより、そうなってしまっているのではないか。社会的に迷惑をかけている存在だから、何とかするしかない。それで本当にいいのかということを問うている。私もそう思う。

引きこもっていることが必ずしも悪いことではない。私は、引きこもっている人と話をするときに、今の引きこもっている状態をこれから先どう続けていくかというふうに話をすることが多い。そうすると最初は話したくない人も、話が始まると、こんな状況に自分が居たくているわけじゃない、自分は本当はこうしたかったという話が出てくる。仕組みとか制度とかではなくて、あくまでも人として。日下部さんの話にもあったが、人は変わっていける、そのことの大切さ。そして、出会うということの中で、その出会いは、実は人との出会いというだけではなく、その人と出会って、居心地がよかったり逆に違和感を感じる私に出会っているということがすごく大切。
人との距離感は、人それぞれだと思う。私は、人と関わらなくても本人がそれでよければ、それでいいと思うという意見については、その通りだと思う。私が1番危機的に思っていることは、社会が効率化していく中で、江戸時代の人の10年分の情報を我々は一日で消化しているという情報社会の中で、我々は生きている。どんどん忙しく、でも便利にはなっている。だが、実は非常に不自然になっている。暑いだとかの我々の中にある自然な感情を大切にされていく必要がある。過去に戻るみたいな。私たちが過去に戻るなどと言うと、Z世代と言われる人たちを批判しているように聞こえるかもしれない。だが、決してそうではない。そういう時代を知らないで、今を生きている、生きざるを得ない状況になっている、そういう社会を作ってきてしまった責任は、我々に大いにあると思う。と同時に、そういう素敵な温さを感じあえる、提供し合える、人として関われるという、そこに命が存在しているということを感じあえる関わりの作り方をもっと丁寧に解説していかないといけないと思う。話し合うというのは、お互いがお互いをしっかり伝え合い、出し合って、折り合いをつけ合って、生き合っていくことが大事。
ウクライナを攻めているロシアはひどいと思う。だが、ロシアともしっかりと話し合わなければならない。我々が、何を大事にしようとしてきたか話し合うことだったと思う。それができない状況にどんどんなってきていて、話せない、話し合わないで何かが進んでいくとしたら、それは本当に恐怖。我々が多様性を認める、そういった方向に向かって豊かさ広げていけてるかどうか、しっかりと検証していくと同時に、日々の子どもたちとの関わりみたいなところで見直していく必要がある。
私も今、支援者と言われる人たちの居場所を進めていこうと思っている。教員の方を含めた支援者の人たちが、最近相談に来ることが増えている。みんな疲弊し始めている。日本は先進国の中でも若年層の自殺が多い、死因のトップは自殺という国に日本はなっている。若い人たちが死にたいと思うことが増えている。そういう社会に我々は生きている。相談に来る方は、「親を降りる」という本をみたが、そうしたいのだができない、どうすればいいかという相談がある。何とかしようとするということが、実はゴールなんだということに気が付いていくことが必要。
最近、行き詰まって思うことは、何とかなる、なるようにしかならないという風に考えるようになっている。世の中のことやいろいろなことを考えだすと、いろんなところに戦いを挑まないといけなくなるような気になってしまう。それは、とてつもないことで、やり切れることでもない。だから自分のやれること、自分の身近なところで、身近な人たちとゆっくり話し合う。相談員としてとか、父親としてとか、公務員としてとかではなく、人として、同じ苦しさ楽しさを生き合っている同志として、仲間として関われたらいいなと思う。
加藤●2つ話したいことがある。まず1つ目、最初から求められていたのがお母さん的存在だったということに興味を持ったという意見。つまり、お母さん的というのは、ありのままを受け止める存在。これは男も女も同じだが、実は誰もが求めている。自分のありのままの想いを受け止めてくれるような存在がいてくれたら、安心するということがある。この質問者は大人になっても誰かに依存していくような人間になってしまうという不安はないのかということを言っている。私は全くそう思っていない。花は種が地面の中にあると、芽が出てくる。太陽の光が当たり、水あって、土があれば必ずそれぞれの花になる。動物もすべてそういうものを遺伝子の中で持っている。人間として、形として成るわけであるし、生き物としての力も持っている。太陽が当たらないだとか、雨が降らないだとか、土がカサカサでどうにもならないだとか、栄養がないだとかということになると、育ちにくい。しかし、それが育てば、生き物の本性として、その者になっていく。生命力とはものすごく強いものであるということを、私自身実感している。受け止められたら、自分の内側から出てくる。自分の持っているもの、何かこれがしたいということが、ピッと響けば、それに向かって動き出す力を、生き物はみんなあると思っている。だから必ず大丈夫。今まで出会った人たちは、私の体験のなかでいうと、つらい体験をし、厳しい状況の中にあっても、みんなそれぞれその人らしくなっていっている。

地域が育てる、地域を育てる

加藤●私には3人子どもがいる。もうみんな40代、そして20歳から小学4年生までの全部で5人の孫がいる。その次男が、とても優秀だった。いい子だったが、中学2年生の時に突然不登校になった。私は、児童相談所の相談員とPTAの副会長をしていた。やはりそこで、周りにあの人の子どもが学校に来ていないという風に言われたこともある。だが、まったくそこは気にせず、本人を信頼していた。家内が周りからいろいろ言われて、つらい思いをした。不登校になるということは、その子が学校の中で自己実現できていない。自分は自分として認めてもらえないということ。不登校だとか引きこもっているということは悪いことではない。そのことを親もわからない。そうすると親も子どもを責める。そして自分まで責めてしまう。命というものは必ずその条件に合って、生きるために引きこもっていったり、学校に行かなかったり、暴れたり色々する。そのことを受け止めるということがまず前提。そして受け止められている状況があれば、必ず自分で見つけ出していく。これはほぼ100パーセントいえること。ほっとかれて、食べ物も何もない状況だったとしたら、泥水でも飲むし、雑草でもなんでも食べて生きていこうとする力を人間は持っている。そういう意味で、人間の一人ひとりに生きようとする力、自分が求めているものを求めていく力が絶対にある。そこを信頼することが我々はできなければならない。今中学生で、不登校になっていてつらい思いをして、学校に行きたくないといっているという話が、この中にもあったが、信頼していいと思う。その子が行きたくないという気持ちを大事にしてあげる。自分で選んだ道で。学校なんかいかなくていい。なぜ行かないといけないのか。行かなかったら死ぬわけではない。行く必要はない。そういうことをたくさんの人が実証している。学校に行かないと死んでしまう、生きられないというのはまったくウソ。そんなことはない。学校がない時代も人は生きていた。その人が選んだものを、自分で見つけ出したものを信頼していくと行くこと。これができるかどうかということがとても大事。
もう1つの質問で、現状家の中でこもっていると、非常に難しくなっていくので、どうしても家族だけで対応していくことは難しいのではないか、子ども、保護者、学校、地域、行政含めて、そういうことが一緒に力を合わせることはできないだろうか。ここが課題で、我々がこれから取り組むべきことがどういうことかというと、地域の中で子どもたちが育っていける環境を作っていけるかというところ。植物も、自然環境もどうやって地域の中で育てていけるかどうか。ここのところを無視して、みんな家庭のなかだけ、学校のなかだけで批判されている。学校だけではとても無理な話。地域全体の中でやるということになると、どういう地域を作るかというところまで視点が持てないと、子どもを助けることはなかなかできないと思う。地域全体の中で子どもを育てるということはどういうことかというのを、もう1度みんなで学び合う。そしてそれを作っていく。鎌倉は数年前から放課後かまくらっ子を始めている。私も上江洲さんもその事業に関わっているが、今そこで働いている人たちがすばらしい。先ほどの話の中で、私は支援なんかいらない、大人なんかいらないと言った。質問の中に、支援はいらないのかというものがあるが、支援は当然必要なこと。つまり、子ども達が学んでいく対象が、いろんな大人たちが地域の中にいて、その地域をつなげていく。
私は、自身をソーシャルワーカーだと思っている。どういう仕事かというと、まず、つらいことがあった子どもに出会うこと。そして、自分が知っているさまざまな環境(施設や人)に繋いであげる。自分だけですべて解決などできないので、自分が他の人に繋いであげる。こういう役割を私自身はする。だから、私は様々な人と出会っていないといけない。この子にこの人が合いそうだなと思ったら、その人のところに行き、繋いであげる。その人とうまくいけばそれでいいが、もしうまくいかなければ、その人が別の人に繋いでくれる。もしくはまた私が繋いでいく。そういうことをお互いにやり合っていくことが、地域全体がつながってくること。これからの課題というのは、不登校だとか子どもが育たないという問題は、地域社会をどう作るかというところまで、視点を広げなくてはいけない。私自身はそういう仕事をしようと思い、行政も含め、いろいろな活動にも参加してみている。やれるかどうかはわからないが、そういうことを1つ1つやっていく。
こういうことに関わっている方から場所がないという話やお金はどう集めるかという話をよくいただく。今1番簡単にできることは、「住み開き」。自分の家を開く。子どもたちが来れる場所を自分の家に開く。あるいは、空き家がたくさん空いているから、空き家を居場所に作っていく。
いろいろなことがあるが、とにかく地域の皆さんに、子どもを育てるということがこんなに大事だということ、次の時代を作る子どもたちが元気でいることがこんなに大事だということを伝えること。そのことから、小さな活動が始まる。鎌倉は今それがスタートしている。私はそれを実感している。素晴らしいところになると思う。ぜひ、頑張っていただけたらと思う。

生きていくための”ひきこもり”を経て

日下部●いくつか質問が似ているところがあるので、まとめて答えていきたいと思う。引きこもっていたときだったり、今思っていることを話してもらいたいという意見について。具体的にはなくて、当時はただ悶々と過ごしていた。昼夜逆転したり、たまに1か月ぶりに外に出られるようになって、今度は何年も出られなくなったり、その繰り返し。外を歩いている同世代の人たちを窓からのぞいて、完全に違う世界だなどと思っていた。でも、今思い返してみると、自分にとって自分自身と向き合うのに必要な12年間だったと思う。みんなそれぞれそういう期間があると思う。引きこもらなかったら、こんなに自分自身の問題と向き合わなかったし、人と繋がって人と出会える喜びを知ることもなかった。あのまま無理をして学校に行っていたら、自分の感情とかを含めて殺していくことになっていたと思う。先ほど加藤さんが言っていた通り、生きていくために引きこもっていたのだと思う。
引きこもりという言葉から考えていくと、引きこもりの居場所に関わるまで、自分が引きこもりだったという風に思っていなかった。でも言葉とはとても大事で、引きこもりや不登校という言葉を知ると、途端にネガティブな言葉のイメージで、自分で自分にレッテルを貼ってしまう。でも、自身の経験から言うと、私は生きていくために引きこもっていたし、自分を守るために引きこもっていたと思っていて、今その経験なしには生きていけないと思う。そのおかげで、自分の経験を生かしていけないかという風に目標をみつけることにもなった。引きこもりという言葉をもう少し捉えなおしたいなと思う。
役所や居場所とどう繋がったかという質問について。役所は、当時、わたしの家が大変な状況だったため、ケースワーカーがついていた。わたしは会ったことがなかったが、担当のケースワーカーに連絡して、1からやり直せる場所がないかと聞いたら、わたしの年齢からすると就労支援が妥当だということで、紹介してもらった。
学校がどんな場所であってほしいかという質問について。あまりあれこれは言えないが、今、いろんな人と出会っていくことが自分にとって学びになっている。例えば、机に向かう勉強だけが学びではない。一方的に義務教育として教えてもらうことだけが学びではなくて、もっと多様な意味での、人間関係とかを含めて、もっといろんな意味での学びがあるということを、学校で教えてもらえると、ありがたかったかなと思う。昔は、パソコンがなかったため、フリースクールだとかを知るきっかけもなかった。学校の中でも、学校以外の学びの場もあるという話を聞けたら、悩んだときにその言葉だけでも頭にあるとよかったかもしれない。

親とどう話したらいいか、親にどういうことを言われたかという質問について。どうやったら親と話せるようになるかは人それぞれだと思うが、自分はアイコンタクトだけでもすごく会話になっている。それだけでだいぶ違っている。姉も引きこもりだったが、学校に行きなさいという言葉を聞いたことがない。その点で、すごくいい親だったなと思っている。ものすごく長い目線で見守ってきてくれたのだと思う。それはそれで親もだいぶつらかったと思う。わたしが大人になり、働きだして1人暮らしをするときに、引きこもりになる直前の小学校の連絡帳が出てきて、親と先生のやり取りを見つけた。親は1度もわたしに学校に行けとは言わなかったが、どういうふうに子どもを学校に行かせたらいいか、子どもを学校に行かせようとしている私は間違えているのではないか、という葛藤のやり取りだった。それを見たときに、親も自分と同じ悩みをそれぞれ別の立場から抱えていたと知った。そういうのを知ると、親の立場のことももう少し考えられたらよかったなと思った。必ず、いつか通じ合うときがくるのだろうと思う。
家族というところでいうと、兄弟も引きこもりだったり、家が閉鎖的だと、外の世界の人が入ってこなくなり、風通しが悪くなり、家族だけで諸共崩れていくことがあると思う。うちもそんな寸前のところだったし、父の死がなかったら変わりたいと思わなくて、自分から外に出れなかった。自分が行動を起こしてみると、家族が少し変わる。家族の誰かが変わったから、自分も1歩踏み出してみようという、急に動き出す瞬間がある。お互いに影響を与え合って、初めて変化を感じ始めて、家族はそれぞれ違う人間だという線引きをしっかり出来た。同じ人間みたいになってしまっていたのが、1人1人違う人間で、それぞれに違う人生があるということを感じられた。引きこもりの人を抱えた家族は、難しいだろうとは思うが、何かが変わるとその波紋が少しずつ広がっていくと思った。わたしが伝えたいことは、人との出会いで変われるということ、いつまでもやり直せるということ。やり直せる社会であってほしいという願いから。
ぱっと出てくると、浦島太郎のようで、1からやり直したいのに仕事なんて考えられないと思っていた。小学1年生ごろからやり直したかったが、それは叶わないということも大事な学びだった。でも、初めて自分で1人暮らしをして、仕事をしてみると、仕事場でどうやったら自分がいられるかとか、どうやったら相手を尊重できるかとか、お互いに気持ち良い仕事場作りを考えていくと、それが自分の居場所づくりにもなった。職場も自分の居場所になっていった。無理に、子ども時代からやり直したいと思っていたが、現実的な悩みをちゃんと生きられるとそんなことないなと思えて、少しずつ成長を感じられた。
今、引きこもっていたり、悩みを抱えている人にはきっと大丈夫だよと伝えたい。

エンディング

明石●出会いってどうやって作ったらいいかという質問が来ている。相談とは相互談義という言葉の省略形。相互談義とは話し合うということ。日下部さんは、相談してくれたから繋がれたし、相談することが話し合うことの練習になると思う。ぜひ、身近なところで相談していってほしいと思う。
上江洲●ぜひ、今感じていることを自身で大事にしていただき、近くの方、大事な方と分かち合っていただきたい。本日のこの場は、何か問題を解決するための解決策を見出すということではなく、チラシタイトル通りの場所になっていたらうれしい。これにて講演会を終了する。

参加者の皆さんのご感想

  • 心にささる言葉が多かった。「ひきこもりがなぜ悪い」、「どうにかしようは暴力」など、目からうろこでした。子ども中心!これが一番大切だと思いました。
  • 日々たくさんの子どもたちと関わる中で、できるだけ子どもの気持ちを大切にと思いつつ私の価値観や多数の方へ子どもを引き込んでいる事を常に感じジレンマを持っています。今日の皆さんの話はとても大切なことで頭、心のどこかにじんわりと在り続けてくれる物だと思います。私のジレンマの解決はしなくていいのだと、今後も考え続け、悩み続けていいんだと、、、。定期的にこのような機会があればありがたいです。
  • 自分が50代となり、自分の子どもが20歳となり、かつて自分が乗り越えたつもりの学生時代の嵐が子どもたちに未だに影響して痛みを残しているのではないか、と、明石先生のお話を聞いて思いました。人との対話とは、自分を振り返る場でもありますが、日々の忙しさで忘れていたことを思い出しました。
  • 日下部さんのお話や存在、登壇していただいた姿勢に感動しました。人生のうちの12年、たった12年なのか、大人は長い12年ととらえてしまうのが、日下部さんから「必要な時間だった」と聞かされたことや家族とも「目で合図や会話ができていた」という言葉にできることや気づきはまだまだたくさんあるなと思いました。
  • お話全てが心に響きました。日々に忙殺される中、子ども時代から今に至るまでの心の内側にふたをするように押し殺してしか生きられなかった自分に最近気づいてきました。日下部さんの自然体な語りに勇気を感じました。
  • 教員としての日々の悩みがストンと落ちるところがたくさんありました。自分の正しさや価値観を押し付けているなと思いました。相手と話し合うことを大切にしていきたいと思います。学校と地域がつながるよう、できることをやってみようと思います。
  • 皆のお話し、すごく心に突き刺さりました。役割や立場ではなく、人として向き合う、話し合うこと、大事にしていきたいと思いました。“生きるために引きこもる”そうならなくても自分らしく自由に生きていける社会を目指していきたいと感じました。
  • 日下部さんの言葉、“当時の自分と生き合っている”がとても深く、心に響きました。自分が動くことで、関係が動いていくというメッセージも自分の中で、生かせればと思いました。まずは今日感じたことを、だれかと話し合いたいと思います。

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所属課室:こどもみらい部青少年課青少年担当

鎌倉市御成町18-10 本庁舎1階

電話番号:0467-61-3886

メール:k-ssn@city.kamakura.kanagawa.jp

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