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更新日:2025年1月6日
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鎌倉市の地名の由来を、いくつか紹介します。
いろいろな説がありますが、主なものを紹介します。
昔は粟積み船が出入りしていたと伝えられ、「粟船」と書いて「おおふな」と読んだといわれます。
昔は、十二郷ヶ谷ともいわれたようです。十二軒の村だったのでこういう名前がついたのだとか、熊野神社の十二社があったからだともいわれています。
昔は浄妙寺と書きましたが、浄妙寺があるので、「妙」を「明」に改めたといわれています。
源頼朝によって建てられた永福寺(ようふくじ)の本堂を二階堂といったのでこの地を二階堂と呼ぶようになったといわれています。
源頼朝が大倉(蔵)に鎌倉幕府を建てたとき、四方に門を造りました。その西側の門を西御門というようになり、そのあたりの土地を西御門と呼ぶようになったといわれています。
鶴岡八幡宮にある古い書物によると、源頼朝の食事に雪を出すため、雪を貯蔵しておく雪屋(ゆきや)を今宮(八幡宮の裏)あたりに保存したためといわれています。また、このあたりは「ゆきのした」という草が多くはえていたからともいわれています。
商業でにぎわう店などがあり、それほど大きくない町という意味で、大町にたいして呼ばれた地名です。
鎌倉駅の北西一帯の地域で、鎌倉時代は「亀谷」(かめがやつ)と呼ばれていました。「扇谷」(おうぎがやつ)は、英勝寺の裏門あたりの小さな地域の地名のようですが、室町時代になって上杉定正(さだまさ)がこの辺りに住んでいて「扇谷殿」(おうぎがやつどの)と呼ばれるようになったことから、「亀谷」の名が使われなくなり「扇谷」という地名がよく使われ、この一帯の地名になったといわれています。「扇谷」という地名は、「扇の井」があるからや、山と谷が入りくんで扇のように広がった地形から呼ばれるようになったといわれています。
現在の御成小学校から市役所のある場所に、かつて御用邸があり、皇族方が御成り(来られ滞在されること)になったことからきているようです。
もと大町の一部で、佐助ヶ谷の地名で呼ばれていました。佐助ヶ谷内に、上総(かずさ)・千葉・常陸(ひたち)の三介(すけ)の屋敷があったので三介ヶ谷と呼ばれ、後にその呼び名がなまって佐助ヶ谷になったという伝えと、隠れ里の神が翁(おきな)の姿で夢に現われ、佐殿(すけどの)とよばれた源頼朝に旗挙げをすすめて助けたので、「佐助」というようになったと伝えられています。
長谷寺の付近なので、大和(奈良県)にならって寺の名をそのまま町の呼び名としたものといわれています。
極楽寺坂の下にあるので坂ノ下と呼ばれるようになったといわれています。
この地にある極楽寺という寺の名をそのまま町の呼び名としたものといわれています。
極楽寺方面から続いている山が海岸まで延びて岬となっていて、この岬の形が稲束(いなたば)を積みあげた稲むらに似ているのでこの名がついたといわれています。
腰越の小動岬(こゆるぎみさき)から稲村ガ崎までのゆるやかな海岸で、中国流に六町を一里(いちり:4000m)としてこの名がついたといわれています。(実際はそれほどありません)
大町大路ぞいに多くの町屋がならび、「まち」が大きかったのでその名がついたといわれています。
鎌倉時代、材木座の地域は、和賀江島(わかえじま)の船着場(港)ができる以前から船舶(せんぱく)の寄港地としてにぎわい、商業の町がつくられていました。その後、船着場ができると、遠くから材木などを運ぶのに便利なところとなり、鎌倉の建築資材の集散地として一層にぎわい、多くの材木商人がこの地に住みつきました。鎌倉時代の後期から室町時代には、材木商人の座もつくられていたところからこの名がついたといわれています。
「由比ヶ浜海岸」の名からつけられました。「由比ヶ浜」の名のおこりははっきりわかりませんが、由比というのはみんなで助けあう「ゆい」からきているともいわれます。また、むかし由井郷にあったので、その名がついたともいわれています。
この地域に古くからある笹目ヶ谷(佐々目ヶ谷)からつけられたと思われます。