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更新日:2025年3月25日
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朝夷奈切通(あさいなきりどおし)は、鎌倉七口(鎌倉七切通)の一つで、中世都市鎌倉とその周辺地域との交通や、都市周縁部の様相を示す重要な遺構であるとして、鎌倉市と横浜市にまたがる切通道と、その周辺の範囲が、国指定史跡に指定されています。
切通は、山と海に囲まれた鎌倉と、その周辺の地域との交通の便をよくするために開削されたと考えられています。朝夷奈切通は、鎌倉と東京湾に面した六浦(むつら・現在の横浜市金沢区)との間を結ぶ交通路として造られました。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によれば、鎌倉幕府第3代執権北条泰時の監督のもと、切通道の工事は、仁治2年(1241年)から仁治3年(1242年)にかけて実施されたとされます。工事が予定より遅れていたため、泰時自らが土石を運んだとの記述も残っており、泰時がこの道路の開通を重要視していたことがうかがえます。六浦は、鎌倉における東京湾側の玄関口(外港)として、海を隔てた房総半島方面との交通の要衝であったため、鎌倉との行き来を容易することは極めて重要であったとみられます。
切通の開通後、六浦は、製塩の地としても栄えたことから、六浦で作られた塩がこの切通を通り、鎌倉へと運搬されました。また、六浦に近接する金沢(かねさわ)は、北条義時の息子・実泰や、その息子・実時を祖とする「金沢北条氏」が称名寺や金沢文庫を造立するなど、仏教や文化の一大拠点として繁栄しました。
鎌倉幕府の滅亡後も、朝夷奈切通は使われ続け、江戸時代には、改修も行われました。自動車が通行可能な道路が並行して整備された昭和30年代頃まで、鎌倉と六浦とを結ぶ重要な交通路でした。現在は、歩行者のみ通行が可能となっていますが、往時の景観をよく残しています。
江戸時代頃から、鎌倉幕府初代侍所別当・和田義盛の三男、朝夷奈三郎義秀(あさいなさぶろうよしひで)という屈強な武士が、一夜で切通を切り開いたという伝説が生まれ、「朝夷奈切通」と呼ばれるようになったと考えられています。
鎌倉時代、「朝夷奈切通」を含む鎌倉と六浦とを結ぶ道筋は、『吾妻鏡』の記載によれば「六浦路(むつらみち)」と呼ばれていたと考えられています。
JR・江ノ電鎌倉駅東口4番乗り場から京浜急行バス「金沢八景駅」・「鎌倉霊園正門前太刀洗」行きに乗車約20分、「十二所神社」下車。切通道入口(「三郎の滝」)まで徒歩10分(約700m)。