ホーム > 市政情報 > 広報 > 広報かまくら > 広報かまくらバックナンバー > 広報かまくら令和元年度3月15日号(No.1354) > 広報かまくら令和元年度3月15日号7面
ページ番号:28177
更新日:2024年3月5日
ここから本文です。
文化財課 電話61-3857
市内の文化財のうち、歴史的・芸術的に価値が特に高いものを、市指定文化財に指定しています。このたび、3件を新たに指定し、1件を追加指定しましたので紹介します。これにより、市指定文化財は328件になりました。
制作年代は江戸時代 17世紀
英勝寺蔵
(鎌倉国宝館寄託。3月28日から5月17日まで鎌倉国宝館で展示予定)
善光寺(長野県)は、皇極3年(644)創建、阿弥陀三尊像を本尊とする寺院です。善光寺と本尊の由来を語る縁起は、鎌倉時代末期から各地で制作されましたが、巻き物で現存する例は本作が唯一です。五巻一組で、釈迦(しゃか)の前世から、阿弥陀如来像の利益(りやく)、善光寺の建立(こんりゅう)までを描いています。
本作を伝える扇ガ谷の英勝寺は、太田道灌(どうかん)の子孫で徳川家康側室・英勝院の願いで開かれた浄土宗の尼寺です。明和5年(1768)の英勝寺宝物帳には、徳川光圀(みつくに)の兄に当たる高松藩主・松平頼重の奉納とする「善光寺阿弥陀縁起 五巻」が記録されていることから、本作が17世紀に制作されたことが分かります。本作は、近世における善光寺縁起絵の優れた作品として重要です。
制作年代=天和元年(1681)~昭和19年(1944)
数量=竪帳18点、横帳63点、絵図1点、書幅3点 合計85点
八坂大神蔵
八坂大神文書は、扇ガ谷の八坂大神に伝わる、江戸時代から昭和にかけての古文書群です。明治2年(1869)に改名するまで八坂大神は相馬天王といい、鎌倉幕府御家人の相馬師常(もろつね)によって勧請(かんじょう)されたと伝わります。
最も古い史料を含む「天王当番帳」には天和元年(1681)から昭和18年(1943)まで263年に及ぶ祭礼当番が連綿と書き継がれており、神社の祭礼の変遷を知る上で重要です。
弘化5年(1848)の「若者取締議定帳」などでは、祭礼の実行に欠かせない若者仲間の取り決めを定めており、当時の若者仲間から、青年会を経て青年団へと改編されていく過程がみられる点からも、青年団活動が盛んであった鎌倉で指定するにふさわしい史料といえます。
制作年代=江戸時代
寸法=縦28・7センチ、横308・5センチ、厚1・7センチ 伝宗庵蔵
(鎌倉国宝館寄託。3月28日から5月17日まで鎌倉国宝館で展示予定)
本詩板は、室町時代に京都とその周辺の18人の禅僧が慈恩寺を讃(たた)えて詩を詠み、当時の僧侶が板に刻ませたものを江戸時代に転写したものと推定されます。刻まれた詩などから、慈恩寺は相模湾や富士山を望む場所にあり、境内には様々な草花が植えられ、七層の塔をもつ禅宗寺院であったことがわかります。
慈恩寺は現在の大町の辺りにあったと伝わりますが、室町時代後期には塔はすでに失われ、戦国時代には寺院は廃絶していたとみられます。本詩板は、慈恩寺のかつての姿が分かる貴重な史料といえます。
二くのくは「みへん(身)+区の旧字」が正式表記
追加指定となったものは、中尊の右手に位置する像
制作年代=鎌倉時代 正安元年 (1299)
像高=中尊81・8センチ、右脇侍 62・4センチ
蓮乗院蔵
材木座・蓮乗院の本堂に安置される阿弥陀三尊像について、昭和49年(1974)にすでに市指定有形文化財に指定している「木造 阿弥陀如来立像」に、右脇侍立像である勢至菩薩(せいしぼさつ)像を追加指定するものです。
中尊の阿弥陀如来像は、像内の墨書から、鎌倉時代末期の正安元年(1299)に、関西圏にゆかりの深い仏師・宗円(そうえん)によって作られたことが確認できます。両脇侍像は後の作と見なされ、指定されていませんでしたが、右脇侍像は、細部の形状の比較から阿弥陀如来像の銘にある両脇侍像の一つと考えられるため、追加指定に至りました。
本作は、現存数の少ない仏師・宗円の作例として貴重であるとともに、関西圏ゆかりの仏師の作が鎌倉の地に伝来するという事実は、当時の宗教的な交流を考える上でも貴重です。
鎌倉国宝館 電話22-0753
人間と動物とは、古くから深い関わり合いをもって暮らしてきました。動物を描いたり、かたどったりして、数多くの造形美術が生み出されました。
今回の陳列では、動物が登場する様々なジャンルの作品を展示し、多種多様に表現される動物美術を紹介します。