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更新日:2025年3月18日
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来年より大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されます。主人公・北条義時(ほうじょうよしとき)は約150年間続く鎌倉幕府の礎を築いた人物です。本講座では両館の学芸員が、義時の生きた時代や人物像からその魅力を紹介します。定員20人(全回出席できる人)。抽選。
ところ…鎌倉歴史文化交流館など
【申し込み】催し名・住所・氏名・電話番号を、はがきかファクス、Eメールで、4月12日(必着)までに鎌倉歴史文化交流館(〒248―0011扇ガ谷1の5の1、FAX73-8545、Eメール:rekibun@city.kamakura.kanagawa.jp、電話73-8501)へ
前回は、鎌倉で発見される竪穴(たてあな)建物は貿易に関わる倉庫であり、貿易の中継基地となっていたこと、市内では千棟以上が発見されていることを紹介しました。今回は、その中の興味深い発掘調査事例を紹介します。
由比ガ浜二丁目1075番外(現在の鎌倉警察署)の調査地点では、一辺約14.5メートルにも及ぶ、最大級の竪穴建物が発見されました。これだけ大きな竪穴建物であれば、膨大な物資を保管することが可能です。
この竪穴建物の床下に、部品が揃(そろ)わない二領(にりょう)(注1)の鎧が埋められており、同じ床下から宋銭が20緡(さし)(注2)、1894枚発見されました。鎧は、床下から出土したことや部品が揃わないことから、正当な商品ではないと考えられます。そもそも、刀や鎧は人から人へ譲られることが多く、また、当時、金属製品は鋳直(いなお)されて新たな製品に作り変えられることが基本であり、このようにまとまって出土することは極めて稀(まれ)な発見例といえます。この不完全な鎧や多くの宋銭は、何のために竪穴建物に埋められたのでしょうか。
想像をたくましくするなら、この不完全な鎧は、現在でいう「パーツ取り」のような商品だったのかもしれません。その商品は、倉庫を介した大規模な商品取引の傍らで、例えば倉庫の管理を任された現場監督が、ほそぼそと私的な商売を行っていたのかもしれません。そこでため込んだ私財が床下の宋銭であった、とは考え過ぎでしょうか。
【文化財課】
(注1)甲冑・装束などを数える単位
(注2)銭の穴にひもを通し、約百枚ずつ束ねた銭の単位
チケットセンター 電話0120-1192-40(10時00分~19時00分)
4月25日(日曜日)
名優・十八世中村勘三郎が、祖父(六世尾上菊五郎)から父(十七世中村勘三郎)を経て譲り受け、鍛錬を重ねた演目「春興鏡獅子(しゅんきょうかがみじし)」の最後の舞台(2009年1月、歌舞伎座での上演)をスクリーンでお楽しみください。
(注)学生料金は、年齢に関わらず学生証持参の人が対象。要学生証の提示
(注)未就学児の入場はご遠慮を
鏑木清方記念美術館 電話23-6405
明治34年、23歳の鏑木清方(かぶらききよかた)は同世代の若者たちと小さな美術団体「烏合会(うごうかい)」を結成しました。浮世絵の流れを汲む師・水野年方(としかた)の門下生ほか、四条派や大和絵を学んだ者など多彩な顔触れでした。
挿絵画家として活躍していた清方にとって、烏合会は日本画家への転身を図る研鑽(けんさん)の場であり、展覧会への出品作品には「一葉(いちよう)女史の墓」など、清方芸術の源流というべき作品も含まれています。本展では清方の初期の作品を中心に、他の烏合会会員の作品も紹介し、新時代の日本画を目指した若者たちの足跡をたどります。
(注)換気・清掃のため、一時待機をお願いすることがあります