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更新日:2023年7月3日
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源頼朝(みなもとのよりとも)が幕府を開いて以降、鎌倉が武家の都として隆盛したことは知っていても、鎌倉時代150年のさまざまな出来事について、実はよく知らないという人も多いのではないでしょうか。本連載では、来年放送予定の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」をより楽しむために、その時代背景や人物の魅力をお伝えしていきます。
皆さんは「鎌倉殿」という言葉を聞いたことがありますか?幕府の将軍というイメージでしょうか。もしくは源頼朝を思い浮かべるでしょうか。厳密には、どちらも正解であり、どちらも違うとも言えます。
鎌倉幕府の成立は「イイクニつくろう鎌倉幕府」、頼朝が征夷(せいい)大将軍に任命された一一九二年と習った人も多いでしょう(「イイハコ」(一一八五年)の人もいると思います)。しかし、現在は多くの説があり、鎌倉幕府は段階的に成立したと考えるのが有力です。つまり、「頼朝の征夷大将軍就任=鎌倉幕府の成立」ではなく、就任はその段階の一つと考えられているのです。征夷大将軍に任じられたころ、頼朝はすでに「寿永(じゅえい)二年十月宣旨(じゅうがつせんじ)」(一一八三年)によって東国(とうごく)の支配を認められ、侍所(さむらいどころ)・公文所(くもんじょ)・問注所(もんちゅうじょ)の設置、守護・地頭の設置、権大納言(ごんのだいなごん)・右近衛大将(うこのえたいしょう)への就任などを経て、実質的な東国の主(あるじ)としての立場を確立しつつあったと言えます。では、頼朝を主とする人々から、どのように呼ばれていたのでしょうか。それこそが「鎌倉殿」という呼称です。彼らは東国・鎌倉の主という意味を込めて、「鎌倉殿」と呼んでいたのです。
頼朝の死後、子息の頼家(よりいえ)が跡を継ぎますが、彼が征夷大将軍に任じられるのは、その約三年後のことです。頼朝の死によって頼家が継承したのは、将軍ではなく「鎌倉殿」の立場だったということになります。三代実朝(さねとも)の代になると、鎌倉殿の継承と征夷大将軍への任命が同時期に行われるようになり、次第に「鎌倉殿」は「鎌倉幕府の将軍」と同じ意味を持つようになっていきます。
頼朝が挙兵した当初、平清盛(たいらのきよもり)や木曽義仲(きそよしなか)のように、武家政権を京都に打ち立てる選択肢もあったかもしれません。しかし、御家人たちの助言もあって、頼朝はその居を鎌倉と定め、「鎌倉殿」として東国の基礎固めにまい進します。奇(く)しくも、京都の武家勢力はいずれも短命に終わっています。鎌倉幕府が150年も続いた背景には、頼朝が東国・鎌倉という地で主「鎌倉殿」となったことが大きく影響していると言えるでしょう。
【鎌倉歴史文化交流館学芸員・大澤泉】