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更新日:2023年11月6日
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人事行政の透明性や公正性の確保を図るため、職員数、勤務状況や給与など、人事行政の運営状況を報告します。
(令和3年4月1日現在)
行財政改革の一環として、平成29年2月策定の第4次職員数適正化計画に基づき、民間委託化や事務事業の見直しなどで、職員数を28年4月1日(1,356人)から10年間で109人削減することを目指しています。
(注)再任用フルタイムを含む
退職状況や年齢構成などを考慮し、職員を採用しています((1)・(2))。職員は、労働基準法に基づき休暇などの労働条件(3)が保障され、地方公務員法により、意に反して降任・休職・免職されないなど身分も保障されています。ただし、勤務実績が良くない場合や、心身の故障で職務遂行に支障があるなどの場合は「分限処分」(4)、全体の奉仕者たるにふさわしくない非行がある場合などは「懲戒処分」(5)により、減給や免職されることがあります。
全職員…1,344人
令和2年度(かっこ内は令和元年度)
合計…72人(71人)
(各年1月1日~12月31日)
2年…15.2日(元年12.0日)
(注)職員には1年に原則として20日の年次有給休暇が与えられる
(注)期間中に育児休業などで年次休暇を1日も取得していない職員を除く
令和2年度(かっこ内は令和元年度)
令和2年度(かっこ内は令和元年度)
職員の給与は、地方公務員法などに基づき、民間賃金や国・他の地方公共団体の職員の給与などを考慮し、また市長や市議会議員など特別職の給料月額は、市内の公的団体の代表者などで構成される「鎌倉市特別職報酬等審議会」の答申を受け、いずれも市議会の審議を経て条例で定められます。
(注1)この他に地域手当(給料月額の10%)を支給
(注2)現市長については、退職手当の支給は行わない
地域手当
扶養手当
住居手当
管理職手当
超過勤務手当
特殊勤務手当
その他
通勤手当
期末勤勉手当(民間企業のボーナスに相当)
退職手当
(注)調整額…在職中の役職に応じて計算した加算額
北条義時の姉で源頼朝の正妻、北条政子は、保元(ほうげん)二年(一一五七)、時政の長女として、伊豆国北条に生まれました。頼朝と出会ったのも、この北条の地です。頼朝との結婚は、北条氏を歴史の表舞台へと導くことになり ます。
治承(じしょう)四年(一一八〇)、頼朝は挙兵しますが、石橋山の戦いで惨敗。安房国(あわのくに)に渡海すると、房総半島を北上し、鎌倉に入りました。政子も、頼朝から数日遅れて、伊豆山から鎌倉に入ります。時に頼朝三四歳、政子二四歳でした。
将軍御台所(みだいどころ)となった政子は、頼朝との間に二男二女(長女大姫(おおひめ)・長男頼家(よりいえ)・次女三幡(さんまん)・次男実朝(さねとも))をもうけました。ただ、長男の出産は出会いから五年以上、その後次男を授かるまでに十年もの月日を要しており、後継者を産むのに苦労していることが分かります。第四子の実朝を産んだ時には三六歳を迎えていました。
ところが、娘たちは若くして病死し、夫頼朝も急死してしまいます。政子は出家を遂げ、「尼(あま)御台所」として、鎌倉殿頼家の政治を支えました。
建仁(けんにん)三年(一二〇三)、頼家が病に伏します。ここで次の鎌倉殿の座をめぐり、頼家の息子一幡(いちまん)を推す比企(ひき)氏と、弟の実朝を推す北条氏が対立。政子は父の時政に協力して比企氏を滅ぼし、実朝を擁立します。さらに元久(げんきゅう)二年(一二〇五)、実朝の廃位を謀(はか)った時政に隠退を迫り、弟の義時と共に政治の実権を握りました。
承久(じょうきゅう)元年(一二一九)、実朝が暗殺されるという悲劇が起こります。こうして政子は二人の息子にも先立たれました。次の鎌倉殿には、京都の九条(くじょう)家から幼い三寅(みとら)(後の九条頼経(よりつね))を迎え、政子自らが政治を主導することに決めます。いわゆる「尼将軍」の誕生です。
さて、実朝の死を契機として、公武関係は危機を迎えていました。承久三年(一二二一)、承久の乱が勃発します。後鳥羽院は、義時の追討を全国に命じました。ここで動揺する御家人たちに対し、政子は頼朝の恩を説いて結束を促しました。乱から三年後、六二歳で生涯を閉じた義時の法華堂を頼朝の隣に建立したのも政子です。この翌年、政子もまたこの世を去ります(享年六九)。
頼朝の死後、鎌倉は源氏将軍の断絶と承久の乱という、幕府の存続に関わる危機を迎えましたが、これを乗り越えることは、政子の存在なくしては不可能であったといえます。政子は、頼朝亡き後の幕府を守ったのでした。
【鎌倉歴史文化交流館学芸員・山本みなみ】