ホーム > 市政情報 > 広報 > 広報かまくら > 広報かまくらバックナンバー > 広報かまくらバックナンバー・令和4年度(2022年度) > 広報かまくら令和4年度5月号(No.1391) > 広報かまくら令和4年度5月号6面
ページ番号:32872
更新日:2024年5月7日
ここから本文です。
行政マネジメント課
本庁舎・支所の窓口などで各種証明書などの手数料の支払いには、非接触で便利なキャッシュレス決済をぜひ、ご利用ください。
など
現金の受け渡しを正確で効率的に行うことや、感染症対策として、利用者が自分で決済方法の選択や入金ができる「セミセルフレジ」を導入しました。
画面の案内に従って進めていくだけで、簡単に、現金やキャッシュレス決済で支払うことができます。
鎌倉の有力な御家人は、一族で複数の屋敷を持っていました。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』を見ると、北条義時の邸宅も複数あったことが分かります。
一つ目は、建保(けんぽう)元年(一二一三)に起こった和田合戦の記述に登場する「小町上」の邸宅です。この邸宅は、現在宝戒寺(ほうかいじ)が建つ場所にあったと考えられているので、仮に「宝戒寺小町亭」と呼ぶことにしましょう。ここは義時の弟・時房の所有となった後、五代執権・時頼の邸宅となりました。その後、北条氏の嫡流・得宗家(とくそうけ)に伝領され、鎌倉幕府滅亡の際は一四代執権・高時のものとなっていました。宝戒寺は、高時の菩提(ぼだい)を弔うため、その邸宅の跡地に建立された寺院です。さらに宝戒寺小町亭の向かいには、義時の息子・泰時の邸宅がありました。
二つ目は、父・時政から受け継いだ名越の邸宅です。建永(けんえい)元年(一二〇六)二月には、実朝の和歌会(わかえ)が催されています。この名越の邸宅は、長らく釈迦堂口切通(しゃかどうぐちきりどおし)の南東に位置する平場(大町釈迦堂口遺跡)がその旧跡ではないかと伝承されてきましたが、現在では、材木座の谷戸・弁谷(べんがやつ)にあったとする説も出てきています。
三つ目が「大倉亭」と呼ばれる邸宅です。実朝の死後、京都の九条家から三寅(みとら)(後の第四代鎌倉殿・九条頼経)を迎えるにあたり、この邸宅の南に御所が新造されました。義時は自らの邸宅と御所を隣接させることで、幕府内の地位を確固たるものとしました。
大倉亭は義時の立場を考える上でも非常に重要な邸宅ですが、いまだに場所が特定されていません。有力なのは、二階堂大路の南説(位置は諸説あり)、宝戒寺小町亭と同一説、頼朝法華堂跡の南東説(大倉御所推定地の北)などで、近年では釈迦堂谷とする説もあります。
その他にも、和田合戦に先立ち義時の所有となった荏柄天神社前の邸宅などがあります。かつての邸宅の場所を想像しながら、鎌倉のまちを歩いてみてはいかがでしょうか。
(くわしくは広報かまくらPDF版をご覧いただくかお問い合わせください)
【鎌倉歴史文化交流館学芸員・大澤 泉】