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更新日:2024年6月3日
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文化課 電話61-3872
能楽は、ユネスコの世界無形文化遺産に登録されている日本の伝統芸能です。「鎌倉こども能」は、鎌倉の子どもたちに能楽の素晴らしさを伝えるために、毎年開催しています。
稽古は鎌倉能舞台で、本物の装束を身に着けて行います。子どもたちは、間近に伝統に触れることができるほか、能楽を通じて、日本古来の行儀や作法を学ぶことができます。
来年3月の発表会では、シテ(主役)が和紙で作られたクモの糸を投げる場面で有名な「土蜘蛛(つちぐも)」を演じます。
稽古は7月~来年3月の20回程度で、平日の夕方~夜間、夏休み・冬休みに行います。参加費は1万円です。
稽古やスケジュールの詳細などを説明します。参加希望の人は、保護者同伴で出席してください(申し込み不要)。
指導者・中森貫太さん(シテ方(かた)観世流(かんぜりゅう)能楽師)
「『鎌倉こども能』の大きな特徴は、能一番を子どもたちだけで上演するところです。子どもたちは半年かけて基本の謡曲(ようきょく)(セリフ)から始め、最終的に能舞台で演じます。本番は囃子方(はやしかた)や地謡(じうたい)ら玄人(くろうと)との共演で、得難い経験ができます。精いっぱい指導いたします」
(注)カッコ内は昨年度の学年
今回は、源頼朝を陰になり日なたになり支えた、安達盛長(もりなが)に注目します。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、頼朝や義時を温かく見守る姿が印象的ですね。
安達盛長(一一三五~一二〇〇)は、藤九郎(とうくろう)とも称し、頼朝を流人時代から支えていました。頼朝の乳母(めのと)である比企尼(ひきのあま)の娘・丹後内侍(たんごのないし)の婿となった縁から、比企尼の意向のもと、頼朝の身の回りの世話にあたっていたと考えられます。出自は三河国宝飯郡小野田荘(みかわのくに ほいぐん おのだのしょう)(今の愛知県豊橋市賀茂町)を本拠とする小野田氏の庶流(分家)の可能性がありますが、諸説あり明らかではありません。妻の丹後内侍は京都で二条天皇に仕え、和歌の才能にも秀でた女性でした。また、盛長の交友関係から見ても、頼朝に仕える前から京都との関係を持っていたと考えられます。
頼朝の挙兵にあたっては、相模国(さがみのくに)の武士たちや下総国(しもうさのくに)の千葉常胤(つねたね)の元を訪れ、参加を呼び掛けています。また、鎌倉の甘縄にあった盛長の邸宅には、たびたび頼朝が訪れており、長い間頼朝から目をかけられていたことが分かります。なお、甘縄の安達邸は、かつては長谷の甘縄神明神社付近であったと考えられていましたが、近年では、鎌倉歴史文化交流館の建つ無量寺谷(むりょうじがやつ)の、安達氏の邸宅や関連寺院が並び建つ一帯であったと推測されています。
頼朝存命中、盛長は三河国の守護を務めました。娘婿である源範頼(のりより)(頼朝の異母弟)が三河の国守を務めていたことから、三河国の国衙(こくが)行政と守護の警察機能を、二人で担当していたと考えられます。
建久十年(一一九九)正月、頼朝の死によって出家し、蓮西(れんさい)と名乗りました。新しい鎌倉殿・頼家を支える13人にも抜てきされましたが、翌年四月二六日、頼朝の後を追うかのように亡くなりました(享年六六)。
若くして父を失い、流人となった頼朝にとって、盛長は数少ない腹心だったのではないでしょうか。まさに頼朝と共に歩んだ人生であったと言えるでしょう。盛長の活躍にも注目しながらドラマをお楽しみください。
【鎌倉歴史文化交流館学芸員・山本みなみ】
鎌倉歴史文化交流館では、安達氏のほか、三浦氏・梶原氏・大江氏など、13人に関わる資料も展示しています。6月11日(土曜日)まで。