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更新日:2024年7月2日
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鎌倉国宝館 電話22-0753
2館同テーマで開催
7月2日(土曜日)〜8月21日(日曜日)
北条義時が生涯に仕えた4人の鎌倉殿のうち、初代・源頼朝から二代・頼家までの時代には、鶴岡八幡宮の神宝に代表される優美な工芸品などが鎌倉にもたらされました。
本展では、2人の鎌倉殿を軸に、武士たちがどのように美を愛(め)で、神仏に祈りを込めたか、鎌倉の美意識をしのびます。列品解説の詳細は、同館ホームページを。
同館・鎌倉歴史文化交流館・大河ドラマ「鎌倉殿の13人」鎌倉市推進協議会の共催でシンポジウムを実施します。抽選160人。
【申し込み】e-kanagawa電子申請か往復はがきに、催し名・住所・氏名・電話番号を記入し、7月8日(必着)までに同館(〒248—0005雪ノ下2の1の1)へ
鎌倉歴史文化交流館 電話73-8501
2館同テーマで開催
7月2日(土曜日)〜10月8日(土曜日)
三代鎌倉殿・実朝の死後、幕府と朝廷の関係は悪化し、承久の乱が勃発します。北条義時は大軍を京に送り込み、勝利を収めました。この結果、朝廷に対する幕府の優位性が決定的となり、武士が政治の中心を担う歴史の流れが決まります。従って、義時は武家政権を確立した人物ということができます。
また、幕府では尼将軍・北条政子が采配を振るうと同時に、亡き息子・実朝のため、高野山に金剛三昧院(こんごうさんまいいん)を創建し、その菩提(ぼだい)を弔いました。この創建には、現在同館が建つ谷に、菩提寺・無量寿院(むりょうじゅいん)や甘縄の邸宅があったと考えられている安達氏も関わっています。
本展では、義時・実朝に関わる出土品や、高野山に伝わる歴史資料などから、武家政権確立に至る激動の道のりをたどります。9月3日から承久の乱を描いた「承久記絵巻」も展示します。
鏑木清方記念美術館 電話23-6405
本展では、季節のよそおいを描いた作品を、鏑木清方(かぶらききよかた)が考案した浴衣地や描き絵を施した絽(ろ)の着物とともに紹介します(前・後期で展示替えあり)。
また会期中、小・中学生向けの解説書を配布します。
7月17日(日曜日)
(鑑賞マナーと日本画入門体験)
7月27日(水曜日)9時30分~11時30分
7月28日(木曜日)・29日(金曜日)9時30分~11時30分
作品を9月20日(火曜日)~26日(月曜日)に鎌倉駅地下道「ギャラリー50」で展示
8月4日(木曜日)・5日(金曜日)9時30分~11時30分
作品を9月20日(火曜日)~26日(月曜日)に鎌倉駅地下道「ギャラリー50」で展示
申し込みは電話で(1)(2)は7月1日(金曜日)、(3)(4)は7月2日(土曜日)から受け付け。先着順。1回の電話で複数の人数やイベントの申し込みはできません。
市民は、次の施設で観覧料などが無料です。入館時に身分証明書などのご提示を。鎌倉歴史文化交流館・鎌倉国宝館・鎌倉文学館・鏑木清方記念美術館・川喜多映画記念館(映画鑑賞料金は除く)。
文化課 電話61-3872
拉致で引き裂かれた家族の運命を描いた映画です。
【申し込み】e-kanagawa電子申請(中学・高校生は7月1日、一般は7月15日から)か、電話で同課へ
13人の中に、鎌倉を本拠地とした武士がいることをご存じですか。その人物こそ、鎌倉の地名「梶原」を名字とする梶原景時(かげとき)です。景時は桓武平氏の一流・鎌倉党を出自とする武士で、鎌倉の梶原を本拠としました。深沢地区には、鎌倉党の祖・鎌倉権五郎景正(ごんごろうかげまさ)を祭る御霊神社や、景時の墓と伝わる五輪塔があり、梶原氏ゆかりの地であることを今に伝えています。
源頼朝が挙兵すると、同じ鎌倉党で平家方の大庭景親(おおばかげちか)軍につきますが、石橋山の合戦で頼朝の危急を救い、以後頼朝の信頼を得て活躍します。治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の乱の際には、源義経らと共に上洛(じょうらく)し、木曽義仲や平家一門を追討しました。また、寿永二年(一一八三)、頼朝の密命により、双六(すごろく)に興じている上総広常(かずさひろつね)を殺害したと『愚管抄(ぐかんしょう)』(慈円(じえん)著)に書かれています。さらに建久(けんきゅう)三年(一一九二)には、和田義盛に代わって侍所(さむらいどころ)の長官となりました。
しかし、御家人統制の要である侍所の職務上、有力御家人の反感も強く、頼朝の死後にまず粛清(しゅくせい)されたのが景時でした。正治(しょうじ)元年(一一九九)、千葉や三浦など幕府の宿老が景時を弾劾し、訴え出る事件が発生しました。六六人もの御家人がこれに賛同し、景時は失脚して鎌倉を追放されました。翌年、再起をかけて上洛を図りますが、駿河国(するがのくに)(現在の静岡県東部および中部)で討ち死にします。
頼朝の密命により広常を殺害したことや、義経を失脚させたこと、また「景時の讒言(ざんげん)によって命を落とし、職を失う者が数多くいた」という三浦義村の評もあって、良いイメージのない人ですが、鎌倉時代初期の僧・慈円は「鎌倉ノ本体ノ武士」(本体とは、真の姿、真髄)として、景時を高く評価しています。
また、京都の貴族とのつながりもあり、文化的な素養も高かったと考えられます。歌道や音曲に通じており、『吾妻鏡』には「文筆に携わらずといえども言語を巧みにするの士なり」と記されています。
【鎌倉歴史文化交流館学芸員・大澤泉】
おおむね14世紀代の層から見つかった双六盤(雪ノ下の北条時房・顕時邸跡出土)と駒(市内各地出土)。双六は当時広く行われた遊技で、上総広常が梶原景時に殺害された際のエピソードにも登場します。
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