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更新日:2022年10月27日
本市における人事行政の運営状況について、その透明性や公正性の確保を図るため、職員数・勤務状況や給与などを報告します。
(令和4年4月1日現在)
行財政改革の一環として、平成29年2月策定の第4次職員数適正化計画に基づき、民間委託化や事務事業の見直しなどで、職員数を28年4月1日(1,356人)から10年間で109人削減することを目指しています。
(注)再任用フルタイムを含む
退職状況や年齢構成などを考慮し、職員を採用しています(1)・(2)。職員は、労働基準法に基づき休暇などの労働条件(3)が保障され、地方公務員法により、意に反して降任・休職・免職されないなど身分も保障されています。ただし、勤務実績が良くない場合や、心身の故障で職務遂行に支障があるなどの場合は「分限処分」(4)、全体の奉仕者たるにふさわしくない非行がある場合などは「懲戒処分」(5)により、減給や免職されることがあります。
全職員…1,331人
令和3年度(かっこ内は令和2年度)
合計…61人(85人)
(注)各年度実施の採用試験における採用数
(各年1月1日~12月31日)
3年…12.5日(2年…15.2日)
(注)職員には1年に原則として20日の年次有給休暇が与えられる
(注)期間中に、育児休業などで年次休暇を1日も取得していない職員を除く
令和3年度(かっこ内は令和2年度)
令和3年度(かっこ内は令和2年度)
職員の給与は、地方公務員法などに基づき、民間賃金や国・他の地方公共団体の職員の給与などを考慮し、また市長や市議会議員など特別職の給料月額は、市内の公的団体の代表者などで構成される「鎌倉市特別職報酬等審議会」の答申を受け、いずれも市議会の審議を経て条例で定められます。
注1…この他に地域手当(給料月額の10%)を支給
注2…現市長については、退職手当の支給は行わない
扶養家族の構成に応じて支給
住居にかかる費用に対して支給(限度額3万3,000円)
管理職の職責に応じて支給
正規の勤務時間を超えて勤務したときに支給
著しく危険・不快・不健康・困難などの特殊な業務に従事したときに支給
夜勤手当、休日給など
通勤に利用する交通機関などの実費相当の手当(限度額5万5,000円)
算出方法は、〔給料+扶養手当(期末手当のみ)+地域手当+役職者加算〕×支給割合
算出方法は、退職時の給料月額×支給率(最高47.709月)+調整額(注)
(注)調整額…在職中の役職に応じて計算した加算額
鎌倉幕府の執権といえば初代北条時政に始まり、歴代北条氏が就任したことは広く知られていると思います。しかし、北条氏の出身ではないにも関わらず、室町時代ごろの系図などに「執権」と書かれた人がいることをご存じでしょうか。その人物こそが文士として活躍した大江広元(おおえのひろもと)です。
幕府草創期の「執権」の位置付けについてはさまざまな考え方があり、広元を歴代の執権としてカウントするかどうかは諸説あるところです。しかし「関東の爪牙耳目(そうがじぼく)(耳目となって助ける臣(しん))」と称されるなど、将軍の最側近として重要な役割を果たした人物には違いありません。広元の活躍がなければ、鎌倉幕府は存続し得なかったといっても過言ではないでしょう。
広元は京都の貴族・中原広季(なかはらのひろすえ)の養子で、実父は大江維光(これみつ)とされています。久安(きゅうあん)四年(一一四八)に生まれ、朝廷の実務官人となり京都でキャリアを重ねていきました。しかし源頼朝が挙兵すると、鎌倉に下向します。儒学を専門とする学問の家に育ち、行政の実務能力を備え、京都に人脈を持っていた広元は、戦地に赴かず京都との交渉や鎌倉幕府の整備に活躍しました。そして、政務を行う公文所・政所(まんどころ)が設置されると、その長官(別当)となります。
頼朝の死後、二代将軍頼家にも側近として仕えますが、有力御家人らの対立からは距離を置いた立場をとります。三代将軍実朝(さねとも)の代になると、北条氏との協調関係を保ち鎌倉殿の政治を補佐しました。
承久(じょうきゅう)元年(一二一九)に実朝が甥の公暁(こう/くぎょう)に殺され、それまで良好であった後鳥羽院と幕府の関係が悪化します。院が義時追討の兵を挙げると、幕府では足柄・箱根で迎え撃つか、京都へ進撃するかで意見が分かれました。広元は進撃を強く主張し、幕府の勝利に貢献します。京都の内情と鎌倉の機微を知る、広元らしい選択だと言えるでしょう。嘉禄(かろく)元年(一二二五)、病により七八歳で亡くなりました。
広元の息子のうち、四男季光(すえみつ)が相模国毛利荘(さがみのくにもりのしょう)(現在の厚木市および愛川町付近)を本拠とし、毛利(もうり)を名乗ります。季光は北条泰時に重用され、幕府の中心人物の一人として活躍しましたが、北条氏と三浦氏が対立した宝治合戦(ほうじかっせん)で三浦方につき、四男の経光(つねみつ)を残して滅亡してしまいます。しかし、宝治合戦で生き残った経光の子孫は、後に近世大名・毛利氏へと成長していきます。
毛利氏と鎌倉の関係は深く、江戸時代の文政六年(一八二三)には、毛利斉熙(なりひろ)の命で、北条義時法華堂(ほっけどう)跡の裏山に大江広元墓が造営されました。
【鎌倉歴史文化交流館学芸員・大澤泉】
鎌倉歴史文化交流館では12月28日(水曜日)まで、企画展「北条氏展vol.4 北条義時の子どもたち」(前期)を開催しています
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