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更新日:2018年2月28日
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現在のまちは、これまでのまちづくりの積み重ねによってできあがっています。まちづくりの経緯のうち、現在の鎌倉を性格づけている主な事項として、以下のようなことがあげられます。
鎌倉幕府により、自然地形を活かした城塞都市としてのまちづくりが行われ、その後も戦国時代まで多くの歴史的遺産が残されました。また、鶴岡八幡宮に向かう都市軸(若宮大路)、切り通しなどによる街道筋は現在の交通骨格に受け継がれています。
政治の中心地としての機能を失った後は、急激に人口が減少し、まちとしては衰退してしまいました。しかし、この時代には、史跡遊覧の地として、観光に訪れる人が増えていきました。
農業・漁業を営む集落が点在していましたが、旧鎌倉地域は保養地・別荘地としても知られ始めました。明治の中期には横須賀線が、後期になると江ノ島電気鉄道(江ノ電)が開通し、道路も含めた基本的な交通基盤が成立しました。
良好な別荘地・避暑地として発展してきましたが、大正12年の関東大震災により多くの建物が倒壊し、まちの姿は失われてしまいました。
しかし大正14年には、横須賀線が電化され、東京・横浜方面に通勤する人も増えていきました。
大正時代末期の鉄道の電化、工場の立地、道路整備等により、大船地域などでも市街化が始まるなど、急激に市街地形成が進みました。また町村合併により、ほぼ現在のような市域となりました。
道路についても、昭和初期に日本最初の自動車専用道路である京浜急行専用道路(現在の大船西鎌倉線)が、30年代には現在の国道134号が整備されました。
30年代後半から、丘陵地などで大規模な住宅地開発が始まり、緑が急激に失われていきました。
昭和41年には、鎌倉の市民運動などに端を発した「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」(略称:古都保存法)が制定され、鎌倉の歴史や自然環境の保護に向けた取り組みが始まりました。
しかし、外周の丘陵地などで大規模な住宅地開発が盛んに行われ、人口が急激に増加しました。
昭和45年に、都市計画法による市街化区域と市街化調整区域の区分が行われ、さらに48年には新しい用途地域が指定され、都市計画の枠組みが決められました。
昭和63年頃からは、人口の微減傾向と高齢化が進んでおり、市街化の進行も緩やかになっています。都市の成熟化の時代を迎え、まちづくり条例などに基づく、市民、事業者、行政の協働による計画的なまちづくりが求められています。
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