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更新日:2022年8月22日
国指定史跡。読み方は「しせきとうしょうじあと」です。
寺跡のため、地上には現在は目に見えるランドマークはありませんが、「北条得宗家の氏寺跡、鎌倉幕府滅亡の地として政治的に極めて重要な遺跡である」ことを理由に史跡指定された場所で、地下には貴重な遺構群が存在しています。
地下遺構は、風化しないよう埋め戻して草地として管理していますが、フェンスの外からは、北条得宗家の氏寺があった地の、独特の地理・地形や規模感をご覧いただけます。
【フェンス内の東勝寺跡の様子】
【解説板とフェンスの様子】
東勝寺は、13世紀中頃に創建されたと伝えられている、北条得宗家の氏寺です。
鎌倉幕府第3代執権北条泰時(やすとき)の命令により建てられ、開山は栄西(えいさい)の弟子、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)とされています。室町時代には関東十刹の第三位にも叙せられた名刹でした。
1333年(元弘3年)、鎌倉幕府滅亡の年、新田義貞らの鎌倉攻めにより屋敷を焼かれた第14第執権北条高時が、東勝寺に逃げ込み、一族郎党以下870余人とともに自害したことから、鎌倉幕府滅亡の地ともいわれています。その時、東勝寺も焼失しましたが、室町時代に十刹に列せられていることから、焼失後あまり間を置かずに復興されたと推定されます。
その後、東勝寺がいつまで存在したのかは、明らかにはなっていませんが、1512年(永正9年)5月20日に、古河公方足利政氏が妙徳を東勝寺住持に任命したとの記録が残っている(「東山文庫記録」)ことから、この時までは存在していたことが分かっています。
また、1573年(元亀4年)の仏日庵所蔵の文書(「北条家 政氏 印判状」)に、東勝寺領が建長寺九成僧菊に与えられたとの記録があることから、この時には東勝寺はすでに廃滅していたと考えられています。
1975年(昭和50年)の発掘調査では、南側の谷において石垣や石敷きの道、門跡などの遺構とともに、北条氏の紋である三鱗文(みつうろこもん)のついた瓦のかけらなどが出土し、この場所が東勝寺であったことが明らかになりました。
1996・1997年(平成8年・9年)の調査では、北側の谷において鎌倉時代から室町時代の礎石建物跡・溝・柱穴などの遺構や火災の痕跡が発見されました。また、中央の谷では、焼失したと判断される大規模な掘立柱建物跡が検出されました。
東勝寺跡の奥、(宗)宝戒寺様所有の腹切りやぐら付近は落石・岩盤剥離の危険性があるため、立ち入り禁止区域となっています。ロープ内へ進入することのないよう、ご注意ください。
【腹切りやぐら付近の石碑】
腹切りやぐらでは、宝戒寺様により北条氏一門の供養が続けられています。
北条氏一門の遺骨が埋葬されたとの伝承もありますが、裏付けはなく、寺伝では、幕府滅亡の際の東勝寺での死者は少し離れた釈迦堂谷(しゃかどうがやつ)の地に葬られたと記録されています。
1925年(昭和元年)に釈迦堂谷やぐら群が調査された際、床面中央の納骨穴から刀傷の残る生焼けの頭蓋骨が出土しています。
また、1965年(昭和40年)の調査では、釈迦堂谷やぐら群から「元弘三年五月二十八日」銘の五輪塔が出土したことから、北条氏一門は釈迦堂谷に葬られたという寺伝を裏付けているとも考えられます。
所在地:神奈川県鎌倉市小町三丁目482番地
JR鎌倉駅東口バス乗り場から「鎌倉宮(大塔宮)行」、「ハイランド循環(坂上行)」、「金沢八景駅行」または「鎌倉霊園正門前太刀洗行」バスを利用し、「大学前」バス停にて下車。小町大路を海方面に進み、左手に二つ目に現れる小道を左折、緩やかな登坂を道沿いに歩き、滑川(なめりがわ)にかかる東勝寺橋を渡った先、左手のフェンス内に広がるのが東勝寺跡です。
【東勝寺橋から見た滑川】
さて、史跡東勝寺跡の周辺にはほかにもいくつかの国指定史跡があります。せっかく駅から1キロの位置まで来ているので、ぜひ、ほかの史跡にもお立ち寄りください。
東勝寺跡から史跡法華堂跡へは徒歩14分程度。施設情報などはこちらのリンク先(史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓))をご参照ください。
東勝寺跡から史跡永福寺跡へは徒歩22分程度。「大学前」バス停から京急バス「大塔宮行」で行くこともできます。施設情報などはこちらのリンク先(史跡永福寺跡)をご参照ください。
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