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更新日:2025年3月25日
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東勝寺跡(とうしょうじあと)は、北条得宗家の氏寺跡、鎌倉幕府滅亡の地として政治的に極めて重要な遺跡であることから、国指定史跡に指定されています。
東勝寺は、13世紀中頃に、鎌倉幕府第3代執権北条泰時の命により、栄西(えいさい/ようさい)の弟子、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として創建したと伝わります。
北条氏の氏寺として隆盛を誇りましたが、元弘3年(1333年)、新田義貞らの鎌倉攻めの際、第14代執権北条高時が東勝寺に逃げ込み、一族郎党以下870余人とともに自害したことから、東勝寺は鎌倉幕府滅亡の地ともいわれています。この時、寺は焼失しましたが、その後再建され、室町時代には関東十刹の第三位に列せられています。
永正9年(1512年)5月20日に、古河公方足利政氏が妙徳を東勝寺住持に任命したとの記録が残っているため(「東山文庫記録」)、この時点では存在していたことが分かっていますが、元亀4年(1573年)の仏日庵所蔵の文書(「北条家 政氏 印判状」)に、東勝寺領が建長寺九成僧菊に与えられたとあることから、永正9年(1512年)から元亀4年(1573年)の間に東勝寺は廃絶したと考えられています。
昭和50年(1975年)の発掘調査では、中央南側の谷において石垣や石敷きの道、門跡などの遺構とともに、北条氏の紋である三鱗文(みつうろこもん)のついた瓦のかけらなどが出土し、東勝寺に関する遺物であるとの指摘がなされました。
平成8年~9年(1996年~1997年)の調査では、史跡指定範囲北側の谷において鎌倉時代から室町時代の礎石建物跡・溝・柱穴などの遺構や火災の痕跡が発見されました。また、中央の谷では、焼失したと判断される大規模な掘立柱建物跡が検出されました。
発掘調査の実施後、遺構は、風化しないよう埋め戻しており、現在は草地となっています。立ち入ることはできませんが、フェンスの外から、中世に造成されたひな壇上の平場の地形をご覧いただけます。
【フェンス内の東勝寺跡の様子】
【説明板とフェンスの様子】
東勝寺跡の東側には、「腹切りやぐら」と呼ばれるやぐらがあります。新田義貞の鎌倉攻めの際に、鎌倉幕府第14代北条高時らがこのやぐらで自害したとの伝承から、この名が付いたとされます。
宝戒寺の寺伝によれば、鎌倉幕府滅亡の際の東勝寺での死者は、東勝寺の東、釈迦堂谷(しゃかどうがやつ)の地に葬られたとされています。釈迦堂谷やぐら群では、大正15年(1926年)の調査において、やぐらの床面中央の納骨穴から刀傷の残る生焼けの頭蓋骨が出土したほか、昭和40年(1965年)の調査では、高時らが自害したとされる日の初七日にあたる「元弘三年五月二十八日」銘の五輪塔が出土しており、幕府の滅亡との関係性が指摘されています。
【腹切りやぐら付近の石碑】
所在地:神奈川県鎌倉市小町三丁目
JR・江ノ電鎌倉駅東口から徒歩20分、または東口バス乗り場から京浜急行バス「鎌倉宮(大塔宮)行」・「ハイランド循環」・「金沢八景駅行」または「鎌倉霊園正門前太刀洗行」バスを利用し、「大学前」バス停にて下車、徒歩10分。
史跡東勝寺跡において、雑誌等出版物に掲載する写真や、番組等の制作のために映像を撮影する場合は、事前に鎌倉市教育委員会文化財課あてにご連絡をお願いいたします。
「腹切りやぐら」の撮影、雑誌等への掲載等の可否は、管理者である宗教法人宝戒寺にご確認ください。