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更新日:2025年11月4日

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旧華頂宮邸について

旧華頂宮邸外観写真

旧華頂宮邸(きゅうかちょうのみやてい)は昭和4年、華頂博信(ひろのぶ)侯爵邸として建てられました。華頂家の沿革(華頂宮家について)から、通称的に旧華頂宮邸と呼ばれています。

当初から常住の住宅として用いられたといわれていますが、華頂夫妻が住まわれたのは数年のみで、その後、たびたび所有者が代わり、平成8年5月に市が取得しました。戦後の接収もあったと思われますが、華頂博信侯爵当時、諸室がどのように使われていたかなどを含めて詳細は不明です。

建築的特徴について

洋館

旧華頂宮邸(洋館)は、古典的なハーフティンバースタイルの趣ある洋風建築です。

この建物は、昭和4年の春に華頂博信侯爵邸として建てられたものです。平成8年5月鎌倉市が取得し、平成18年4月には市の景観重要建築物、同年10月に国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。「日本の歴史公園100選」にも選ばれています。

  • 建設年:昭和4年
  • 構造:木造3階建て、洋小屋組
  • 敷地面積:約4500平方メートル
  • 建物述べ床面積:577.79平方メートル
  • 屋根:銅板葺き
  • 外壁:木骨モルタル塗り

フランス式庭園

旧華頂宮邸の庭園は、著名な作庭家・上原敬二により設計された、幾何学的なフランス式庭園です。左右対称であるデザインが特徴的で、旧華頂宮邸の2階からはその幾何学模様が良く見えます。

庭園内には、フランス式庭園において重要な要素である噴水が設置されています。

また、庭園内ではバラやモミジなど様々な植生を観察することができ、四季折々の表情を見せてくれます。

四季折々の木・花

四季1四季2四季3四季4四季5

無為庵(和館)

フランス式庭園南側に位置する無為庵(茶室)は、昭和46年に東京・上大崎から移築されたもので、造られたのは昭和初期以前です。無為庵の名前の由来は、棟札に「六十五才にして浄明寺宅間ヶ谷に余生を送らんが為 無為庵主」と記されていることによります。茶室の天井は中央を八角形とし、16本の棹縁を放射状に通しており、柱などにかりん、南天、皮付きの桜や竹といった奇木を使用するなど、奇抜な趣向を凝らしています。

もう一つの移築物である門は、茶室と同じく昭和46年に移築されたものですが、造られたのは昭和初期をさらに遡るものです。薬医門の冠木(かぶき)の両端部に獅子の彫刻をもち、通常の住宅の門というよりも、寺院のような立派なものとなっています。

旧華頂宮邸の建物内部公開日に、無為庵及び和風庭園を公開しています。(無為庵内は玄関まで立入可能です)和館1和館2

華頂宮家について

伏見宮邦家親王第12王子博經(ひろつね)親王を始祖とし、伏見宮家のいわゆる分家にあたります。博經親王は、嘉永5年(1852年)知恩院門跡となり、万延元年(1860年)得度(出家)しましたが、明治元年(1868年)勅命により復飾(俗世間に戻ること)して一家を創し、知恩院の山号「華頂山」にちなんで華頂宮の称を賜りました。

博經親王が薨去(こうきょ/皇族・三位(さんみ)以上の人が死亡すること。)した後は、その第1男子、博厚(ひろあつ)親王がご相続しましたが、明治16年8歳にて薨去されました。このため、伏見宮家から博恭(ひろやす)王(親王の宣下のない皇族の男子、諸王に列せられた。)が3代目を継承しましたが、明治37年(1904年)に伏見宮へ復帰し、その第2男子博忠(ひろただ)王が4代目となりました。

大正13年、博忠王薨去後は断絶していましたが、大正15年、博恭王第3男子、博信(ひろのぶ)王が臣籍(明治憲法下、皇族以外の臣民たる身分)に下って華頂の姓を賜り、侯爵を授けられ、当宮の祭祀(神や祖先を祭ること。)を継ぐことになりました。

 

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