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更新日:2023年12月12日
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財政課…内線2251
令和2年度の決算状況、健全化判断比率などは市ホームぺージで、決算書などは行政資料コーナー(本庁舎3階)でもご覧になれます。
(金額は表示桁数未満を四捨五入しているため、各内訳の計と合計は一致しない場合があります)
一般会計は、福祉・消防・都市整備・教育など、市の行政運営の基本となる会計です。
令和2年度は、新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、例年にはない取り組みを行ったため、歳入・歳出ともに大きく増加しました。
令和2年度
特別会計は、特定の事業に関して設置する会計です。徴収する保険料や使用料だけでは運営が厳しいため、一般会計からの繰出金も合わせて運営しています。
▲=マイナス
財政健全化指標は、地方公共団体の財政的破綻を防ぐため、年度ごとに指標を算出し、財政状況を明らかにするものです。
( ):その割合を示す参考数値
(1)~(4):市の財政
(5):公営企業
一般会計等を対象とした実質赤字の標準財政規模に対する比率
全会計を対象とした実質赤字の標準財政規模に対する比率
一般会計等が負担する元利償還金及び準元利償還金の標準財政規模に対する比率
一般会計等が将来負担すべき実質的な負担の標準財政規模に対する比率
資金不足額の事業の規模に対する比率
いずれの指標も基準を大きく下回っており、財政の健全性は保たれていることを示しています。
市債は、原則として公園や学校、下水道などの公共施設の建設や整備、事業を行うための用地を購入する場合に発行されます。長期にわたって使う予定の施設の建設・整備などにかかる費用を「分割払い」にすることで、そのときの市民が全てを負担するのではなく、将来、施設を利用する市民にも公平に負担してもらうことが市債の重要な役割です。
財政状況が厳しい中で、山積する行政課題を解決するための財源として市債の活用が不可欠であるため、市では世代間の公平性や返済額・借入額のバランスなどに留意した市債管理を行っています。
令和2年度の市の歳入は前年度に比べて、新型コロナウイルス感染症の影響で法人市民税が減額になったものの、個人市民税の増加により、税全体で見ると増額となりました。しかし、今後も感染再拡大への懸念から、市の財政状況は、先行きが不透明な状況が続くと予想されます。こうした厳しい現状を踏まえた中で、新型コロナウイルス対策も含め、来年度の予算編成を行います。
今後も持続可能な自治体運営を実現するため、既存の行政サービスの見直しなど、行財政改革を進めていきながら、適切な予算計上に努めてまいります。
ふるさと寄附金担当 電話61-3845
令和2年度は、本市に寄せられた寄附金に対して、市民の他自治体への寄附と寄附金を得るために要した経費の合計が上回りました。市の税収減により、収支のバランスが崩れると、行政サービスの低下にもつながります。
市では、ガバメントクラウドファンディングなどを積極的に活用するなど、皆さまに市の施策を選んでいただけるよう、制度の充実に努めてまいります。
寄附受入額:10億8,606万7,766円-(他自治体への寄附額 7億7,524万9,000円+経費 5億4,966万5,562円)=▲2億3,884万6,796円
今回は、頼朝が挙兵する以前の鎌倉がどんな所だったのか歴史をひもとき、頼朝が鎌倉を選んだ理由に迫ります。
古くは、鎌倉幕府の公式の歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』に、次のように記されています。
「所素辺鄙、而海人野叟之外、卜居之類少之、」
─鎌倉はもともと辺鄙(へんぴ)な所で、漁師や農民のほかに居を定めようとする者は少なかった─
ここから長らく、頼朝以前の鎌倉には「辺鄙な場所」というイメージが定着していました。
しかし、昭和五九年(一九八四)~平成四年(一九九二)に行われた今小路西遺跡(御成小学校)の発掘調査で、そのイメージが大きく覆ります。この調査では、「天平五年」(七三三)の銘(めい)を持つ木簡と共に、今から約1300年前の役所とみられる建物(郡家(ぐうけ))の跡が見つかりました。全国的にみても、古代の役所は陸上や海上の交通の要所に置かれています。鎌倉にも古代の東海道や、海や川を利用した交通路が通っていましたので、やはり地域の拠点となるような場所だったと考えられます。
また、鎌倉は海とのつながりが深い場所でした。平成二八年(二〇一六)の調査で発見された長谷小路周辺遺跡の箱式石棺墓がその事例の一つです。同様の石棺墓は三浦半島でも見つかっており、海洋民(海を生業(なりわい)とした人々)との関係が想定されています。さらに、由比ガ浜中世集団墓地遺跡では「卜骨(ぼっこつ)」(占いに用いられた獣骨)が見つかっています。こちらも三浦半島などで多く見つかっており、海洋民の習俗と考えられています。
さて、鎌倉の郡家は平安時代に入ると衰退しますが、次にこの交通の要所・鎌倉を拠点としたのが、頼朝の先祖に当たる源頼義(よりよし)でした。南北朝時代に記された『詞林采葉抄(しりんさいようしょう)』には、平直方(なおかた)が自身の鎌倉の屋敷を、娘婿となった頼義に譲ったことから、鎌倉が「源家相伝ノ地」となったと記されています。頼朝の父・義朝も現在の寿福寺付近に屋敷を構え、逗子の沼浜や金沢の六浦にも拠点を持っていました。これらは相模湾から房総半島にかけての東京湾ルート上の要地に当たります。源氏は海や川の交通の掌握に積極的だったと考えられており、その中継地となる鎌倉は、特に重要な拠点となっていたのです。
だからこそ、頼朝は鎌倉の地を居所としたのではないでしょうか。奇(く)しくも、石橋山の合戦に敗れた頼朝は、この海の道を頼って房総半島へ逃れ、東京湾を回って鎌倉に入りました。そしていよいよ、鎌倉時代の幕が上がります。
【鎌倉歴史文化交流館学芸員・大澤泉】
(注)鎌倉歴史文化交流館では、企画展「頼朝以前―源頼朝はなぜ鎌倉を選んだか―」を開催中(12月18日まで)