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更新日:2025年3月27日

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庭園の紹介

やぐら風横穴

庭に見える3つ並んだアーチ状の横穴は、当地が岩崎家の所有であった頃に造られたものといわれています。庭の意匠あるいは貯蔵庫ともいわれますが、詳しい用途は不明です。

その左にある横穴や、別館エントランス正面にある横穴は、中世に遡る「やぐら」で、当館の敷地内には同様の横穴が点在しています。やぐらは横穴式の埋葬施設で、鎌倉の各所に見られます。

別館の発掘調査では、玉砂利を敷いた鎌倉時代後期の池と遣水の遺構が発見されています。切り立った岩肌を借景に池を配する庭園様式は、著名な瑞泉寺の庭園にも共通するものです。

中世の池に設けられた遣水は、この窓の正面付近へと伸びていました。現在でも岩肌から水が染み出し、小さいながらも多様な植物や生物が共存する空間を作り出しています。自然的景観と建物が調和する風景は、鎌倉の谷戸に見られる特徴の一つです。近世以降に多くの手が加えられながらも、中世的な景観の痕跡を感じられる当館の庭をお楽しみください。

やぐらの写真
やぐら

池跡と遣水の写真
池跡と遣水

合鎚稲荷社跡と見晴台

当館の建つこの谷戸は「無量寺谷(むりょうじがやつ)」と呼ばれ、江戸時代には、相州伝の刀工正宗の後裔である綱廣の屋敷があったと伝えられます。そしてその敷地には、刀鍛冶を守護する「刃(やいば)稲荷」が祀られていたと推測されています。

大正年間には、三菱財閥第4代当主の岩崎小弥太が、母早苗のための別荘を構えていました。岩崎氏は、大正8年(1919)、かつてここに祀られていた稲荷社を「合鎚(あいづち)稲荷」として復興し、参道や鳥居、石造神狐像や社祠を整備しました。

その後、平成12年(2000)、センチュリー文化財団がこの土地を取得した後、老朽の著しかった社祠を新たに再建しました。建造にあたっては、愛媛県松山市石手寺の重要文化財「訶梨帝母天堂」(鎌倉時代後期)を模して造られました。

このたび、鎌倉市への土地と建物の寄附にあたり、社祠や神狐像、参道鳥居は、近隣の葛原岡神社へと移設され、現在も大切にお祀りされています。高台にある稲荷社の跡地は、現在は見晴台としてご利用いただいております(雨天時は閉鎖)。見晴台からは、海まで鎌倉のまちを一望できます。

合槌稲荷の写真
木造社祠(平成12年)・石造神狐像(大正8年)

お問い合わせ

所属課室:教育文化財部生涯学習課鎌倉歴史文化交流館

鎌倉市扇ガ谷1-5-1

電話番号:0467-73-8501

メール:rekibun@city.kamakura.kanagawa.jp