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更新日:2024年2月7日
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鎌倉幕府を開いた源頼朝の墓と、幕府の2代執権として武家政権の確立に大きく貢献した北条義時の墓は、「史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」として国指定史跡に指定されています。
現在、石造の層塔が建つ平場は、鎌倉時代、源頼朝の法華堂(「法華堂」とは、当時の権力者等のために建てられた霊廟・墳墓堂のこと)があったと推定されています。江戸時代の安永8年(1779年)に薩摩藩主・島津重豪(しまづしげひで)により整備が行われ、現在も墓所内に残る碑文から当時、玉垣、灯篭、水盤等が寄贈されたことがわかっています。層塔も同時期に整備されたものと考えられています。層塔は、平成元年(1989年)に塔身と第1層の蓋石を残しき損されましたが、その翌年に修理・再建したものです。
源頼朝墓の東側の平場で、平成17年(2005年)に発掘調査を行い、建物の遺構が発見されました。発見された遺構の位置が、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に記載された頼朝墓からの方位や地形と一致したことから、遺構は北条義時が祀られていた墳墓堂「北条義時法華堂」の跡であると推定されています。
発掘調査の結果、建物の縁束(えんづか)の礎石、雨落溝(あまおちみぞ)、柱を支える礎石が据えられていた跡が発見され、この場所に一辺が28尺(8.48メートル)のお堂が建っていたことが明らかになりました。調査では瓦が出土していることから、建物は瓦葺であったと考えられます。また、一緒に出土した遺物(かわらけなどの土器)の年代から、建物は13世紀末から14世紀初頭頃には使われなくなっていたこともわかりました。以上の調査結果と歴史文献『吾妻鏡』に書かれた情報から、これらは13世紀初頭に建てられた「北条義時法華堂」の遺構と推定されています。
遺構は保護のため、発掘調査後に埋め戻し、遺構の上に、発見された礎石や柱穴、雨落ち溝の跡を木杭等で表示しています。
現地に設置している解説板の内容は、下記のPDFからご覧いただけます。
湘南工科大学長澤・井上研究室の技術による、北条義時法華堂の復元CGを見ることができるスマートフォンアプリ「AR北条義時法華堂」を公開しています。
湘南工科大学ニュース:「長澤・井上研究室が北条義時の法華堂ARを開発」(外部サイトへリンク)
アプリには、「現地でAR」と「お家で見る」の2つのモードがあります。
「現地でAR」:アプリ内のカメラで現地のAR看板にあるマーカーを読み込むことで、現地を背景に法華堂が立ち上がり、CGの建物の中を通ったり、内側から天井を見上げたりと様々な体験ができます。
「お家で見る」:CGで復元した建物の真上からの様子や、建築を順々に構造分解した様子などを見ることができます。
アプリケーションは、お手持ちのスマートフォンから各ストアにて「AR北条義時法華堂」で検索、無料でダウンロードできます。AR技術を使用しているため、「ARコア」を搭載した端末のみで利用ができます。「ARコア」を搭載していない端末では、ストアの検索結果に本アプリケーションは表示されません。
ダウンロード用QRコードや簡単な操作方法など、こちらのチラシ(PDF:654KB)をご覧ください。
北条義時墓の平場の北側には、2列の石段が並んでいます。その石段の上には、向かって左から毛利季光(もうりすえみつ)、大江広元(おおえのひろもと)、島津忠久(しまづただひさ)の3人の墓所があります。墓所は、もともと古墳時代後期に造られた横穴墓であったものを、江戸時代以降、島津氏及び毛利氏が転用し、整備したものです。
毛利季光(生年不明~1247年没)は、鎌倉幕府の御家人で、後に長州藩主となる毛利氏の祖となる人物です。幕府の創設に貢献した大江広元の四男で、父の所領のうち、相模国愛甲郡毛利庄(現在の神奈川県厚木市)を相続したことから毛利姓を称するようになりました。季光は朝廷と幕府が争った承久の乱(1221年)で武功を挙げ、幕府の要職である評定衆に就くなど重用されました。しかし、北条氏と三浦氏が争った宝治合戦(1247年)で三浦方に付き、戦に敗れた三浦氏一族とともに源頼朝の法華堂で自害したと伝わります。
季光の墓所は、文政6年(1823年)に、第10代長州藩主毛利斉煕(なりひろ)により鶴岡八幡宮の西側(雪ノ下の鶯谷(うぐいすがやつ)の地)に造営されましたが、大正10年(1921年)にこの地に移設されました。
大江広元(生年不明~1225年没)は鎌倉幕府の政所初代別当を務めた人物です。源頼朝の側近として鎌倉幕府の創設に貢献しました。公家(朝廷の貴族)出身の広元は、鎌倉幕府と京都の公家との間の交渉で活躍し、頼朝の死後も、北条政子や第二代執権北条義時とともに幕府の運営を支えました。
広元の墓は、毛利氏の祖・毛利季光が大江広元の四男という縁から、文政6年(1823年)に、第10代長州藩主毛利斉煕により造営されました。
島津忠久(生年不明~1227年没)は、鎌倉幕府の御家人で、後に薩摩藩主となる島津氏の祖となる人物です。忠久の祖母が源頼朝の乳母だった縁から頼朝に重用され、平家追討などで活躍し、恩賞の一つとして南九州の島津荘(しまづのしょう)の惣地頭(そうじとう)に任ぜられました。
島津家には、忠久が頼朝の庶子であったという説が伝わっており、安永8年(1779年)に、時の薩摩藩主島津重豪が頼朝墓に近いこの地に忠久の墓を造営しました。
3つの近世墓へと続く石段のふもと向かって左手には、やぐら(横穴式の墳墓)があります。
このやぐらでは、宝治元年(1247年)の宝治合戦で自害した三浦氏一族の供養が行われています。
鎌倉幕府の有力御家人であった三浦氏は、執権を務める北条氏と対立しました。宝治合戦で5代執権北条時頼に攻められた三浦泰村以下一族276人は、源頼朝法華堂にこもり、自害したと伝えられています。
やぐらとは…13~15世紀頃に造られた横穴式の墳墓のこと。鎌倉とその周辺で特に多く見られます。
鎌倉駅東口バス乗り場から「鎌倉宮(大塔宮)」行、「鎌倉霊園正門前太刀洗」行、「金沢八景駅」行または「ハイランド循環」バスを利用し「岐れ道」バス停にて下車。徒歩5分ほどの道路突き当りが源頼朝墓です。源頼朝墓に至る階段のふもとから右手に50m程にある石段を上ると、北条義時墓があります。
所在地:神奈川県鎌倉市西御門2(外部サイト(GoogleMap)へリンク)
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