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更新日:2023年12月6日
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大河ドラマ担当…内線2398
鎌倉殿とそれを支えた北条義時ら、13人の重臣などゆかりの地をご紹介します。いにしえの歴史に触れることで、住み慣れたまちの新たな発見をしませんか。これは昨秋作成した『鎌倉殿を支えた13人の重臣ガイドブック』の抜粋です。同本は、市ホームページより入手できます。
ゆかりの人物:北条義時・三浦義澄・大江広元
北条義時の没後、供養のために建てられた墳墓堂(法華堂)の推定地です。江戸時代以降に整備された大江広元などの墓所もあります。(西御門2丁目)
ゆかりの人物:源頼朝
源頼朝の生前に持仏堂として建てられ、没後に法華堂と呼ばれるようになりました。現在、頼朝墓のある平場がその跡地であると考えられています。(西御門2丁目)
ゆかりの人物:源頼朝
源頼朝の法華堂に安置されていた地蔵菩薩・如意輪観音(にょいりん)・跋陀婆羅尊者(ばっだばらそんじゃ)の三躯(さんく)などを祭ります。地蔵菩薩像はもと、報恩寺の本尊で、後に移されました。(西御門1-11-1)
ゆかりの人物:北条義時
北条義時の危機を救った霊験(れいげん)をもつ戌神将を祭った大倉薬師堂が前身とされています。十二神将は室町時代のものですが、北条氏の信仰を受け継ぐ寺院です。(二階堂421)
ゆかりの人物:源頼朝・二階堂行政
源頼朝が奥州合戦の犠牲者供養のために建立し、基壇と池などが復元されています。本堂は二階堂とも呼ばれて地名になり、近辺に住んだ藤原行政は二階堂氏を称しました。(二階堂209)
ゆかりの人物:九条頼経(三寅)
3代将軍・源実朝が暗殺されると北条政子や北条義時は、源頼朝の遠縁の九条頼経を京都から迎え、4代将軍にしました。明王院は頼経が御願寺として建立しました。(十二所32)
ゆかりの人物:源頼朝・源実朝・北条義時
由比郷に勧請(かんじょう)された八幡宮を治承4年(1180)に源頼朝が現在地に遷(うつ)し(『吾妻鏡』)、放生会(ほうじょうえ)や流鏑馬(やぶさめ)を奉納。以来、源氏の氏神・幕府の守護社として崇敬を集めました。(雪ノ下2-1-31)
ゆかりの人物:源頼朝・13人全員
源頼朝が大倉に御所を構え、幕府を開いたのでこう呼ばれます。周囲には有力御家人の宿所や役所が置かれました。清泉小学校を中心とする地域と考えられます。(雪ノ下3丁目)
ゆかりの人物:安達盛長
鎌倉歴史文化交流館が建つ谷には安達氏の菩提寺・無量寿院や甘縄の邸宅があったと考えられます。発掘調査で鎌倉時代後期の池の跡や礎石が見つかりました。(扇ガ谷1-5-1)
ゆかりの人物:源頼朝・北条政子・源実朝
源頼朝の父・義朝の館があったといわれ、北条政子が栄西を開山とし建立しました。裏山には政子、源実朝の墓と伝わる五輪塔があります。(扇ガ谷1-17-7)
(注)現在、拝観は中門まで
ゆかりの人物:北条義時・歴代北条得宗家
北条義時が屋敷を構えて以来、代々北条得宗家の邸宅があった場所です。幕府滅亡後、北条一門を弔うために後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建立しました。(小町3-5-22)
ゆかりの人物:比企能員・竹御所
妙本寺がある比企谷は、比企一族の屋敷跡とされ、源頼家の息子・一幡の袖塚(そでづか)や比企一族の墓と伝わる石塔、頼家の娘・竹御所の墓所があります。(大町1-15-1)
ゆかりの人物:三浦一族
源頼朝が三浦義澄の父・義明の冥福を祈って建立したとされます。敷地内には三浦一族や家臣の墓と伝わる五輪塔があります。(材木座2-9-19)
ゆかりの人物:和田義盛
北条義時と和田義盛の武力衝突(和田合戦)で敗れた和田一族を埋葬したと伝わります。明治時代に多くの人骨が掘り出されました。(由比ガ浜2丁目)
ゆかりの人物:梶原景時
鎌倉党の祖・鎌倉権五郎景正を祭ります。鎌倉党は鎌倉郡などを拠点にした武士団で梶原・大庭・鎌倉・長江・長尾氏などがいました。(坂ノ下4-9)
ゆかりの人物:北条義時
北条義時と妻・姫の前の子・重時の山荘に造られた寺院です。周辺はもと三浦氏の所領だったという説もあります。(極楽寺3-6-7)
姫の前(比企朝宗(ともむね)の娘)は幕府の官女で美しい女性でした。義時は1年間、恋文を送り続けても振り向いてもらえず、見かねた源頼朝が「離縁しない」と誓約書を義時に書かせて結婚させました。頼朝の死後、両家の関係が悪化し、二人は離縁しました。
ゆかりの人物:源義経
寺伝では天平16年(744)行基の創建で、源頼朝の不興を被った源義経が逗留(とうりゅう)したと伝えられます。腰越状の写などが残ります。(腰越2-4-8)
ゆかりの人物:梶原景時
鎌倉党(よを参照)の本拠地には鎌倉権五郎景正を祭る御霊神社があり、それぞれ伝承が残ります。梶原地域には梶原景時や一族に関する話が伝わります。(梶原1-12-27)
ゆかりの人物:北条義時・梶原景時
北条義時以来、北条得宗家領となった山内荘に5代執権・北条時頼が建立した禅宗寺院です。三門では毎年7月15日に梶原景時の菩提(ぼだい)供養のため施餓鬼会(せがきえ)が行われています。(山ノ内8)
ゆかりの人物:北条義時・源実朝
北条義時以来、北条得宗家領となった山内荘に、8代執権・北条時宗が建立した禅宗寺院です。国宝の舎利殿(しゃりでん)には、源実朝ゆかりの仏舎利が祭られています。
(注)舎利殿は常時公開されていません(山ノ内409)
ゆかりの人物:北条泰時・源義高・大姫
北条義時の息子・泰時が建立し、泰時の年忌供養が行われています。また、北条政子が娘・大姫と許嫁(いいなずけ)の源(木曽)義高を弔うために創建したともされ、裏山に義高の首塚といわれる塚があります。(大船5-8-29)
治承四年(一一八○)、源頼朝は平家打倒の兵を挙げ、その後、新たな武士の政権「鎌倉幕府」を創り上げていきました。
頼朝のもとには、東国武士をはじめとする源氏の家人、平家の治世に反意を持つ人々、頼朝の妻や母・乳母ゆかりの人々、京都から新天地を求めてやってきた貴族など、さまざまな人が集いました。
彼らは自らのあるじの意を込めて、頼朝を「鎌倉殿」と呼びます。
頼朝の死後、息子・頼家が2代目・鎌倉殿を継承しますが、その地位は決して安定したものではありませんでした。この鎌倉殿を支える存在として選ばれたのが、北条義時をはじめとする13人の重臣でした。
義時や頼朝の妻・政子の父。比企一族を滅亡させ、源実朝を3代目・鎌倉殿にする
父は北条時政。姉の政子が源頼朝と結婚したことで挙兵に協力。その後、幕府の最高権力者に
頼朝が伊豆で流人生活をしていたころからの側近。重臣に選ばれるも、翌年死去
石橋山の合戦で頼朝を救い、信頼された。重臣に選ばれるが失脚
頼朝の乳母の養子。娘・若狭局は源頼家の妻。義時の妻・姫の前は姪
三浦郡を本拠にした。重臣に選ばれるも、翌年死去。子・義村は北条氏と協調的
三浦義澄の甥で御家人を統制する侍所の別当(長官)。義時との合戦で敗死
頼朝の挙兵以前から源氏の家人。文筆に長け、公文所でその能力を発揮
奥州合戦で活躍した。京都との人脈を持ち、子孫は鎌倉時代を通して繁栄
流人時代からの頼朝の知り合いで、鎌倉と京都の連絡役。頼朝らの死後に出家
中原親能と義兄弟。政務処理を行う公文所や政所の別当(長官)。北条氏と協調的
下級文人貴族で、頼朝に京都の情勢を伝える。訴訟機関の問注所で初代の執事(長官)に
永福寺の近くに邸宅があった。公文所や財政業務に携わり、重臣に選ばれる
大河ドラマ担当 内線2398
大河ドラマの世界観を体感できる施設で、撮影で使用した衣装・小道具、ジオラマ、役者のサインなどを展示。
大河ドラマの放送に合わせて鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム内(鶴岡八幡宮境内)に、開館する予定です。
開館期間は3月1日(火曜日)~令和5年1月9日(月曜日・祝日)(雪ノ下2-1-53)
鎌倉歴史文化交流館 電話73-8501
1月4日(火曜日)~3月26日(土曜日)
大河ドラマの放送に合わせて、1年間全4回にわたって、北条氏に関わる企画展を開催します。
第1回目は、北条氏の本拠地・伊豆国韮山(にらやま)の遺跡や鎌倉市内で見つかった鎌倉初期の出土品に光を当て、伊豆から鎌倉へと活動の場を広げた北条氏の軌跡をたどります。
同交流館×鎌倉国宝館×大河ドラマ「鎌倉殿の13人」鎌倉市推進協議会
伊豆の国市教育委員会文化財調査員の池谷初恵さんと同交流館学芸員の山本みなみとのシンポジウムを開催します。定員は75人。抽選。詳細は市ホームページを。
【申し込み】e-kanagawa電子申請か、催し名・住所・氏名・電話番号を記入した往復はがきで、1月11日(必着)までに同交流館(〒248-0011扇ガ谷1の5の1)へ
都市計画課 電話61-3667
鎌倉地域の周辺にある既存の駐車場に車を停め、公共交通機関に乗り換えて、観光スポットに向かう方法がパーク&ライドです。大船・稲村ガ崎・七里ガ浜などに駐車場があり(由比ガ浜パーク&ライドは休止中)、駐車して公共交通に乗り換えると、渋滞を気にせずに観光ができる上、協賛施設などで割引などの特典が受けられます。
詳細は市ホームページを。